杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第9回: Hit The Road Jack

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.03.15

 しばらく厄介になる旨を母とその恋人に打ち明けそびれて数日が過ぎた。母は滅多に仕事部屋から出てこないし顔を合わせても大抵は上の空で光丘秀蔵としか話さない。それも仕事の話題ばかりで明日香に理解できる単語は少なかった。十年前に出て行ったはずの娘が無駄飯を喰っているというのに微塵も気に留めない。無視しているのではなく関心がないのだ。何も。何ひとつ。皆無だった。
 母が引退し介護が必要となるまでこのまま何十年でも居座れそうだ。責め詰られたほうがまだしも気が楽だ。肉親にとってさえいてもいなくとも気づかれぬのなら世間の扱いも肯けようというもの。社会的に無の存在だと身に染みた。
 かつての自室は当然のように光丘秀蔵に占拠されていた。無断でお借りしてすみません、ベッドは十年前のまま手を触れていませんのでご安心ください、私物は今日中に片づけますと爽やかな笑顔で申し出られたが明日香は断った。一度は棄てた家の先住権を主張するほど浅ましくはなかったし、彼が寝室を母と共有しているのを知ってげんなりしたせいもある。
 一刻も早く出て行きたいが先立つものも向かう先もない。ベッドのある部屋を譲ったのを後悔しつつも、なかば意地で居間のソファをキャンプ地と定めてそこで寝起きすることにした。あれほど忌み嫌っていながら心の片隅ではあてにしていたのか。その気になればいつでも甘えられるかのように取り違えていたのか。あのおっさんSVと自分にどんな違いがあるというのかと思い悩んだ。やはり戻るべきではなかった。もとより好ましい居心地ではなかったがもはや見知らぬ家も同然だ。
 かつてあれほど悩まされたガラクタが一掃され、モデルハウスさながらに隅々まで掃除が行き届いていることに、明日香は皮肉にも一抹の寂しさとよそよそしさをおぼえた。倉庫を借りたんですと光丘秀蔵は明日香の表情を察して教えてくれた。出版社から引き上げた手描き原稿も保管しています、温度も湿度も最適に保たれていますと彼はいった。どんな悩みを持つ女をも安心させるような声だった。
 チーフアシスタントと称しながら光丘秀蔵は作画には一切関わっていなかった。インターネットや足を駆使して仕事を獲ってきては、出版社や取材先との折衝をしたり日程を調整したり、海外の下請けに指示を出したり機器の設定をしたり、さらにはソーシャルメディアや検索媒体での広告まで代行しているようだった。細かく問い詰めなくとも様子から見当がついたのは明日香自身、通販会社で似たような経験があったからだ。デザインをやりたくて入社したのだが期待は叶わなかった。
 昼でも深夜でも台所の食卓でマックブックに向かう光丘秀蔵を明日香は目にした。母の仕事を妨げまいと気を遣っているのだ。便器や浴槽を磨いたり電球を変えたりするところも目撃した。キーボードを叩いていても携帯で商談をしていても炊事や掃除をしていても彼は愉しげだった。流行ドラマを主演するモデルさながらの美青年が実家で嬉々として働く姿に、明日香はどうしても慣れることができなかった。よくもあの社会不適合者がこんな夢のような男を捕まえたものだ。何度見ても違和感で眩暈がした。
 マネージメント業務の合間に光丘秀蔵は家事までしている。多少は腕におぼえのある明日香も彼の手際には嫉妬をおぼえた。家事をしない人間は往々にして手抜きを咎める一方でやってあることには気づかぬものだし、まして十年前まで録画すら娘に頼った母がどれだけ「チーフアシスタント」の才と努力を理解しているか怪しかった。たとえ光丘秀蔵が遺産狙いの詐欺師だとしても文句はない。むしろ母のためにしてくれた数々を思えば拝みたい気持だった。非現実的な美貌と相まって後光が射して見えた。
 母は昔からよほど気に入った映画をたまに観るくらいにしか居間を使わなかった。衝動的に買い込むDVDや娘に録画させた番組の山は仕事をしながら環境映像のように流して消化していた。チェコの人形アニメや『ひなぎく』といった映画を熱心に鑑賞し、将来の夢を思い描いていた十代の明日香のほうが、むしろ居間の滞在時間は長かった。生まれ育ったこの家には食事に居間を使う習慣もなかった。母やアシスタントたちは仕事部屋で、娘は台所の食卓でまずい汁物を啜った。
 ふたりきりの職場となったいまもその習慣は続いているのだろう。彼らが寄りつかぬおかげで午すぎまでカーテンを締めきり、高校時代のジャージでなかば尻を出して毛布に絡まり、涎を垂らして眠りこけていても苦情は出なかった。光丘秀蔵に目撃されても何も感じなかった。こちらは社会的に無の存在だし向こうはあまりにも現実感に乏しい。それに所詮は母の男だ。自分と関わりがない。向こうもそのような光景を見慣れているようだった。さすが母の男だ。
 一日の大半をソファで眠って過ごし、たまに目覚めてはドラマの再放送やワイドショーを観た。印象に残ったのは昔の小学校銃撃事件のドキュメンタリーくらいだった。
 その番組によれば三十二年前、青葉市内の小学校に頭のおかしい夫婦が武装して侵入し、自動小銃を乱射して教師や生徒数十名を殺傷したという。生まれる前にそんな事件があったのを明日香は初めて知った。映画に出てくるM十六からフルオート機構を取り除いただけのものが、この国でも許可証さえあれば猟銃として合法的に利用できる事実に驚かされた。
 それ以外の番組はただぼんやり眺めただけだった。腹が空けば美青年の手料理を食べた。初日のシチューはたまたまだったらしく献立は幸いにも汁物限定ではなかった。しかしもし仮に豚汁が連日続いたとしても明日香に不平はなかったろう。
 これほどまでに美しい男がどうして料理まで巧いのか、天は美青年に二物も三物も与えてあたしからはすべて奪ったと明日香は嘆き、嘆きながらも食は進み、これほど怠惰に過ごしていいのか否よくないと知りつつも、不幸続きの我が身を甘やかすがごとくに喰っては寝て、起きては喰ってを繰り返し、四日目に体重計に乗って我に返った。
 これほどまでに短期間で天は明日香に二キロも三キロも与え給うていた。
 運動だ。意を決してジーンズに穿き替えパーカを身につけた。高校時代の服は光丘秀蔵がクリーニングに出して納戸に保管してくれていた。流行以前に十代の服を三十路間近で身につけるほうが苦痛だったが気にしてはいられない。破れたブラウスや校章を縫いつけたジャージよりはましだ。それより肥っていた当時のジーンズがぴったりであることに再打撃を受けた。
 春の陽光が眩しかった。ひきこもっているあいだにこの街も離れた日の東京より暖かくなっていた。坂を下ったり登ったりまた下ったりして神社の隣のコンビニにたどり着いた。たいした距離ではないが遠く感じた。人里に降りるのが久しぶりだからなのか肥満のせいかはわからない。無料配布の棚から求人誌や賃貸情報誌をつかみ取り、履歴書用紙とボールペンを物色しているとドアの電子音がして見憶えのある女が幼児をふたり連れて入ってきた。
 見憶えはある、しかし名前は思い出せない。高校時代の……確か噂話ばかりしていたハンドボール部の子じゃなかったっけか。あの頃女子は教室内で派閥に分かれていてよその集団とは会話も少なかった。子供らは親に似て不細工で頭も性格も悪そうな顔をしている。二歳くらいのほうは女児であるのを口実にわがまま放題しそうに見えたし、四歳くらいの男児は子供であるのを口実に女の尻を触りそうに見えた。しかしふたりも産み育てられるほど財力があるのだから彼らの親は勝ち組なのだ。そして勝ち組の子に生まれついた彼らの人生もまた神に祝福されているのだ。
 相手の反応を明日香はまざまざと思い描くことができた。甲高い声すら聞こえるかのようだった。こちらの顔を認めるなり野卑な好奇心に顔を輝かせ、いつ戻ってきたの、いま何しているの、結婚は、と矢継ぎ早に質問を浴びせかけてくるだろう。そして夫の自慢話でも聞かそうとするに決まっている。親しくもないのに、いやだからこそ平然と無遠慮になれるのだ。
 明日香には母と違ってつくり話の才はない。男も職も住む部屋も喪って実家でゴロゴロしながら美青年の手料理で肥え太っています、などと正直に答えられるものか。履歴書は母の仕事部屋でダウンロードして印刷すればいい。いくら制作環境を電子化したとはいえボールペンくらい借りられるだろう。さながら忍者のように食品の棚に隠れて死角を移動し、気取られずに店外へ脱出することに成功した。
 顔見知りから逃げ隠れねばならぬほど落ちぶれるとは、と明日香は嘆息した。たかだかそれだけのことで万引きでもしたかのように動悸がしていた。幸いその後はだれにも出くわさず実家にたどり着いた。懐かしいソファーに寝転がると安堵の息をついたがこことて不法滞在にすぎない。賃貸情報誌と求人情報誌をいささか真剣な目つきでめくっていると光丘秀蔵に覗き込まれた。
 うおっと獣のような声を上げて飛び起きた。これまで数日間、尻を出して寝ていても見て見ぬ振りをされていたので透明人間にでもなったかのように錯覚していた。至近距離で見上げる美青年の膚には毛穴がなかった。瞳に吸い込まれそうだった。そしてやはりいい匂いがした。明日香はまたも動悸がした。心臓病の不安を感じながらソファに座りなおし、なんぞ用かと無愛想に問うた。
 お仕事と住む場所を探されているんですね、と光丘秀蔵は爽やかにいった。
 そうよ見ての通りよと明日香は低い声で答えた。顔がほてるのを感じた。実家のソファに転がって求人情報誌を眺めているところを母の愛人に見下ろされるほど女として恥ずかしいことはない。明日香の価値観では毛玉だらけのジャージで尻を出して眠るのを見られるよりも恥だった。後者なら例えば年収百億のデイトレーダーだってそのような生活をしているかもしれない。
 いい物件があります、と光丘秀蔵はそばに跪き、低いテーブルに頬杖をついて気さくに切り出した。妹が寮母のようなことをしているんです。以前は祖母とふたりでやっていましたがあいにく祖母は入院しまして。昭和モダン建築というのでしょうか、フランク・ロイド・ライトの孫弟子が設計した単身者向けアパートです。歴史を感じさせて趣のある建物ですよ。トイレと浴室は共用ですが改修済ですし、各階にあるので住みにくいということはないはずです。居間や洗濯室も共用で、今風にいえばシェアハウスのようなものですね。
 もしかしてあの古い変な建物、と明日香は尋ねた。進駐軍に使われてたっていう。
 敗戦後の一時期はそうだったようですね。光丘家が恩を受けた家系が戦前から所有する物件です。
 へぇーと肯いて明日香は無意識に身を乗り出した。三叉路の角を入口とする二階建ての妙な建物がアパートだったとは。通学中にいつも気になって眺めていたのだ。手入れがされていて廃墟にこそ見えなかったがひとが住んでいるとは思わなかった。
 明日香が興味を示した一瞬を光丘秀蔵は逃さなかった。あとになってみれば潜在的な不安につけ込まれたとしか思えないのだが、明日香は何も不自然に感じなかった。異性出入り厳禁の単身者向けアパートなんていまどき珍しいでしょう、女子大の学生寮でもないのにねと彼はいったのだ。ミキさんもカズミさんもマコさんもリクさんもみんないい方なので安心ですともいわれた。話しかける距離が近すぎることにも、いかがわしいモデル事務所の勧誘にそっくりなことにも明日香は気づかなかった。
 さらにはダメ押しのように家賃を提示された。敷金礼金なし共益費込み月額二万九千円。駐車場はなし。
 あとからは何とでもいえる。どん底の精神状態で判断力が鈍っていたとか、古い知人から逃げ隠れた直後で、自立の幻想が得られるのなら多少いかがわしい話にでも飛びつきたかったとか、目の前の男と実の母との愛の巣に闖入した後ろめたさだとか。とにかく一刻も早く実家から出たかった。
 頭が正常に働いていればやり手の美青年を迂闊に信用したろうか。したかもしれない。何しろ明日香は彼女持ちの大学生を恋人と信じるような女なのだ。入居費用は家財を売ったお金と貯金でどうにかなる、なんなら母に借りたっていいと考え、とりあえず光丘秀蔵を通じて内見の日程を決めた。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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