杜 昌彦

GONZO

第5話: 黄金の心を持たない男たち

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2020.08.29

なぜ通報しなかったのかとあなたは問うかもしれないだったら試しに最寄りの交番へ赴くなりいまこの文章を読んでいる携帯で百十番にかけるなりしてみたまえ中折れ帽にサングラス黒スーツの殺し屋が痴漢に馬乗りになって階段を滑り降りたと告げるのだなんなら停車したわずかのあいだに列車内から人混みや建物を透かして見たのだといい添えていただいても構わないユーモアを解する警官なら調子を合わせて尋ねるかもしれないほかに目撃者は? わたしのほかにひとり向こう側で電車を待っていた女子高生ですええ混み合っていて距離もありましたが見たんです駅に停まっているあいだに一部始終をね犯人も知っています女子高生の父親が経営する古書店に出入りする怪しい客のひとりです何か違法な取引が行われたに違いありません……まったく数十年前の記憶におけるわが視力ときたら知り得ぬことをあたかも神のようになんでも見通し語りたがる
 賢明な読者諸氏が指摘されるだろう通りに記憶を修正しよう十代のわたしは実際には何も見なかった見たのは鏑木紀一郎がすぐそばで痴漢を働き見咎めた青年記者に車外へ連れ出されるまでだ話を盛るのならわたしが被害に遭ったことにしてもいい鞄に付着したのはそのときの何かだ加害者や日時こそ異なれど通学中にそのような経験をしたのは嘘ではない認めようその先は書物の読み過ぎによる妄想にすぎない
 では古書店主の娘ならどうだったろうかどこからであれ彼女が殺害の様子を——少なくとも血まみれで息絶えた鏑木と馬乗りになるゴンゾとを目撃したのは紛れもない史実であるしかしもし彼女に訴え出る勇気ないし命を危険に晒す粗忽さがあったとしても嘘つきの悪童と見なされるのが関の山だったろうそれとも豊かな想像力を賞賛されたろうか殺し屋の描写に帽子とサングラスの黒ずくめを用いるのは当時すでに廃れて久しい漫画的表現だったおまけに殺害手法がふざけているだれが衆人環視で白昼堂々そんな派手な真似をするものかひとつ大人たちの常識とやらに忖度し疑わしき表現を自粛してみようではないかどこまで省略すれば受け入れられる?
 だれかが駅で殺された……そんな通報はありませんね
 痴漢を捕まえた青年が階段で突き飛ばされた……痴漢? 冤罪でしょうしかも死者は役職つきの警官と判明する立派な地位にある男性がそのような犯罪を働くはずがない立場が逆ではないのか?
 駅でだれかが倒れています……これならどうだろう? だれの通報かにもよるスーツの壮年男性であれば迅速に対応されよう通報者が女子高生で応対した駅員や警官が男性ならまずは疑ってかかられる当時のそうした窓口は男性ばかりだったそういう時代だった時代に取り残された国だった
 かくなる社会にあって女子どもとして生きていた彼女は賢明にも見たことをだれにも告げなかった級友にも教師にも父親にもだ例外は幼少時からの親友であるぬいぐるみだけだった人間はぬいぐるみのような黄金の心を持たない告げればどう扱われるか彼女は知っていたおかげで辱めは免れたが身の危険に変わりはなかった見られた男は見られていたのを知っていた知っていることを彼はある人物に告げた告げずとも事態に変化はなかったろうが報告の義務があった告げた相手はだれか存在せぬはずの男に義務を課した人物はそれは田澤なる名で知られた実業家であった
 その老人は経営する店のひとつ老舗として知られる中華料理店の暗い奥の席でグラスの水をちびちびと飲んでいたビニールクロスが垂れた背後の厨房では喧嘩腰の異国語が交わされ火柱が上がっている水を啜りながら商売のことを考えるのは若い友人を亡くした数年前からの習慣だった死者を悼むのではなく単にその頃から酒に飽きただけだ身近な人間が自ら招いた愚かな死を迎えるのには慣れていたそうしたことはしばしば金の動きになった稼ぎにもなれば喪うこともあった収支はプラスに傾きがちでおかげで東北有数の繁華街青葉市刻文町で田澤の名を知らぬ者はなかったときには多崎やら澤田やらと名乗ることもあり本名はだれも知らなかったが戸籍だって偽装であったかもしれない)、 高額の納税をいかなる名前で行っていたにせよそれが彼であると知らなければ老いて暇を持て余した冴えない常連客に見えたろうくたびれたジャケットの下に糊とアイロンの利いたリネンの開襟シャツを着て折り目のついたズボンを穿き足許だけはなぜか靴下にサンダルだった白髪は椿油で整えられていた
 護符のぶら下がった提灯や緙絲こくしや唐辛子の飾りと同じく老人は油染みた店内に溶け込んでいた小柄ながら背筋が伸びていてアメリカン・オプティカル製セルロイド眼鏡の奥の光は鋭かったその鋭さに気づくほど間近で顔を突き合わせられる人間は滅多にいなかったその数少ない男がまっすぐに店内を近づいてきて向かいの席に座ったゴンゾこと梶元権蔵が店内や入口に背を向けるのはその店だけだった
どういう風の吹きまわしだこの老いぼれにわざわざ顔を見せるとは
 田澤老人は子飼いの殺し屋に見向きもせず商売に思いを巡らせる目つきのままでぞんざいに手を振ったエプロンも白い帽子もつけていない大柄な男が厨房から出てきて肯いて戻っていったマスクをつけていてさえ岩のような容貌とわかるあの男が口を訊くのをゴンゾは見たことがないどこを見ているのかわからない目つきといい意思があるとは思えなかったそれをいえば自分にだってそんなものがあるか疑わしいとゴンゾは思った田澤の爺さんの使い走りはみんな虫みたいなもんだ血に濡れた金のまわりをぶんぶん飛びまわる以外の生き方を知らない
古本屋はもうだめだ娘に見られた
おまえさんの不可視性が破られたってわけか
どうするんだ
どうもしないさあたしをなんだと思ってる
「『ただの老いぼれ
商売しか取り柄のない老いぼれさ妻は子を連れて去り商売だけが残った
 田澤はいかにも地方都市の疲れた老人のように肩を揺すってみせたこの小さい爺さんと自分にほんのわずかでも共通点があるとすればそれは本物の嘘つきであることだとゴンゾは思ったひとを愛すこともないし殺すことさえ煩わしさしか感じない愛されたことがないからだ金持どもがいくらその価値を説教してきやがったところで喰ったことのないご馳走の味など知りようがないとはいえ田澤だって改めて考えれば何もかも持っている側なのだ遠い土地に家族がいるらしい狂人の目をした美人が数年前から店に出入りしているのをゴンゾは知っていた最初は若すぎる愛人かと思ったが孫娘であるらしかった鋭い眼光が田澤老人に似ていたその光を情熱と取り違える男も多かろう関わりになりたくない類の女だったあの女にせよ祖父を愛してはいまいとゴンゾは確信していたほかの男のように破滅させないのはただこの店を気に入っているからだ田澤老人にしても必要とあらば孫娘を平然と殺すだろうあるいは彼が妻子について語ったことは事実かもしれないのだ
 料理人ではない巨漢が虚ろな目でラムネ瓶とグラスを持ってきた無言で開栓しグラスに注いで立ち去るゴンゾはマスクを降ろさなかった彼は砂糖水が好きではなかったし雇い主であり親代わりでもある老人もまたそんな子ども染みたものを好むはずがなかった実際田澤老人は水しか飲まないなのになぜ訪れるたびこの飲み物が出されるのか理解できなかった無口な巨漢は万事承知しているように見えたあたかも口に出して説明するのもばかばかしいこの店特有の煩わしい義務であるかのようだった
その商売のことで話があるとゴンゾは蟹目と呼ばれる小さな長方形レンズのサングラス越しに上目遣いで切り出した。 「依頼人はだれだ
 ここではじめて田澤老人は相手を見た呆れたように
未亡人の復讐というのは嘘だろうあいつは同業者だった痴漢を装えば捕まらないし裁かれない警官なら特に
 田澤老人はこれ見よがしな溜息をついたゴンゾは気にしなかったどうせ演技だ本心であったとしても相手の感情など気にならないふたりともそんな人間であるのは互いに知り尽くしていた呆れてみせるのも厚かましく無視するのも無意味な儀式だった心なんてものは粉砂糖を振りかけたお伽噺にすぎない
あいつが殺そうとしていた男はだれだ
つまらんことを考えるなおまえさんらしくもない次の仕事だ


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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