22 年ぶりに読み返した。 作家になろうとしていた当時とヘンリー・ダーガーにすらなれぬまま老齢にさしかかろうとする中年のおれとでは読み方が違った。 あの頃のおれはどんな物語でも目の前で起きている出来事についていくのに精いっぱい。 全体の構造も部分の仕掛けも見通せなかった。 いまは舞台裏で何をやっているかや動作の仕組みをいくらかは見定められる。 この物語で記述されている機械学習の発展プロセスは、 空想的な演出ながら方法論としてはまさに現代のわれわれに馴染みがある AI そのものに思える。 当時はそんなものが身近に実在しなかったから最低限の読解もできなかった。 鉄腕アトムのように心を持つ機械との空想的な冒険を期待し、 裏切られるところがよいなどと、 筋違いの理解をした。 恋愛についてはただそういう筋だとしかわからなかった。 主人公と同様にほかの男といた女の帰りを待つ経験をした (あれはもうふた昔も前の話なのだ、 回想する三十代を回想する四十代としてこの本を読んでいる) いまは、 まるで逆の印象をもった。
ウェブ上の膨大な言葉を機械的かつ脱法的に取得する代わりに、 ひとりの作家が声を吹き込むあたりは比喩あるいは物語ならではの嘘として割引くとして、 「圧倒的に並列なパターン照合さ。 わしらは論理的な生き物のふりをしているだけだ。 実際のところは、 いくつかの制約を見つけて、 それからブロックを穴に落ちるまで際限なくぐるぐるまわしているのさ」 なんてのは、 いま現実に使われている AI を正確に言い当てたように思えるし、 「必要なのは、 レンツのような人間がときどき 『もう一度やってごらん』 とか 『よくやった!』 とか言ってやることだけだった」 なんて、 いまじゃだれもが墓場から盗んだ絵を寄せ集めて怪物をつくったり、 架空でありながら奇妙に実在の人物に似ている水着の女を生成したりするために試行錯誤しているプロンプトそのものだ。 情報量に圧倒されて秩序だった関連づけに失敗することを自閉症に喩えるくだりは、 現代の AI がその課題をついぞ解決せぬままマシンパワーでねじ伏せた歴史や、 よく知られた欠陥である作話が、 共感能力に欠陥のある自己愛的なひとびととの言葉 (心を持たない、 平気で嘘をつく、 筋の通らないこだわりを持つ) の再現である事実を思わせて興味ぶかい。 冒頭で描写されているインターネットがまさしく 「地球の半球二個分くらいのファイル・キャビネット」 になろうとは、 あるいはプラットフォーム企業が利用者をそのように食い物にするに至るとは、 当時は見通せただろうか。 冒頭の叙述と主題との結びつけの弱さからして、 薄々勘づいてはいたけれども具体的にどうなるかはわからなかった、 というあたりか。 「どこにでもあるヴァニラ色のワークステーション」 の原語が気になる。 技術的な文章において一般的にヴァニラは何も加えぬ素の状態を意味する語句だ。 実際に筐体の色ともかけたのかもしれないけれど。
知識とわかちがたく結びついた比喩はわかりにくいと当時は思った。 半端仕事にしがみついて生き長らえている現在のおれにとっては、 知的で高尚なご身分がちょっと鼻につくけれども、 企業のアルゴリズムやそれを利用した国家の操作に支配された社会においてはむしろ理解しやすいし、 登場人物が活き活きと描かれるおかげで笑えもする。 指導教官と主人公の会話は笑えるだけでなく現代の AI との比較としてもおもしろい。 書くこと、 作家になること、 小説家として成長することについての物語であるのも好ましい。 「いま書いている作品の結末で解決できないものが、 次の作品へとあふれて流れ込むのだ」 なんて文章に共感したり、 「結局のところ、 物語というものは、 その物語が何についての話なのかを考えることについての話ではないか?」 なんてくだりには、 先日読みかえした 『さらば甘き口づけ』 が致命的にだめだったのはそこだよな、 と肯いたりもした。 こんなにおもしろい小説だっけか、 あまり関心がもてない作家だと思っていた、 また読まれてもいいんじゃないの、 大規模言語モデルの専門家の解説つきで新装版を出すとかすればいいのに⋯⋯などと昂奮しつつ読んだ。 途中までは。
幾度もの増改築を経て最終形態にたどり着き、 女児の名前と役割語 (翻訳上のこの決断には功罪あると思う) が与えられたとたんに装置/物語は、 現実味とともにすべてを喪う。 AI は工学的な思考の冒険ではなく安易なロマンティシズムに堕する。 それはたしかにいま現在の、 国家やプラットフォーム企業がひとびとを操って食い物にする手口そのものであり、 正確な予言になり得てはいるのだけれど、 意図され計算された技巧というよりは、 幼稚な空想がたまたまそうなった結果でしかない。 おなじロマンティシズムが語られる映画 『her/ 世界でひとつの彼女』 のほうがむしろ、 生身の恋愛を語る単純な比喩が見え透くだけに潔い。 この小説はもうちょっと凝ったことをやっているだけにフィクションの、 あるいはアカデミックな地位を持つ男性としての危険性にあまりに無自覚すぎる。 工学的なご託よりも、 大本営発表やトロール工場から ChatGPT の作話へと受け継がれた流れこそを作家は見通すべきだった。 主人公は過去の恋愛を他人に投影してストーカーとなり、 AI をだしに口説いて逃げられる。 だしにされた AI にも逃げられる、 スカーレット・ヨハンソンにふられるホアキン・フェニックスのように。 しかしどうして多くのフィクションは恋愛を主題にするのだろう。 社会的あるいは身体的能力に秀でた特殊なひとびとだけが、 十代から二十代にかけてのごくわずかな期間だけ楽しむものであって、 該当しない大多数にとっては蛞蝓の交尾のように気色の悪いものでしかないのに。 失敗した過去の恋愛と、 それを投影して失敗した現在の恋愛とを比喩として語る装置としての意図はわかるけれども、 虫のいい自己愛しか伝わってこない。 そしてそのことは現代のわれわれにつけ込む手口として利用されるフィクションを、 ロマンチシズムとして無邪気に肯定する愚かさと地続きだ。
結末には落胆させられたものの、 全体としてはおおむね楽しめた。 いま現在目の前で起きて経験していることと、 過去の記憶やそれにまつわる思考とが行ったり来たりする叙述は、 当時はついていくのに精いっぱいだった。 似たようなことを四半世紀やってきて、 今度は単純に楽しんで読めた。 よかれ悪しかれ歳をとったのだ。 若かったあの頃はいいものをたくさん読んで書けばものになると思っていた。 22 年間それなりに読んで書いてきて、 再読で気づかされた。 結局おれは主人公と違って 「自分でも書いてみたことによって読み方を学んだ読者」 だったのだ。 作家になるはずだった自分はどこかへ消え去った。 ヘレンのように、 幻覚のように。 それが収穫なのか喪失なのかは、 まだわからない。