崖っぷちマロの冒険

第1話: お嬢にさよならをいう方法

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.11

廊下で見かけたとき、寺井玲子はまだ生きていた。
 五年生の全教室が帰りの会を終えていた。行き交う生徒のなかを、裾の長い菫色のワンピースが近づいてきた。
 他人なんだ。意識しないよう自分にいい聞かせた。図に乗って家庭の事情を打ち明けたあとだった。だからすれ違いざま、短く囁かれたのも幻覚かと思った。
「体育館の裏。話があるから」
 学校で話しかけられたのは初めてだった。
 階段掃除を終えるや、教室へ駆け戻った。舌足らずな甲高い声が話しかけてきた。晴彦だ。ついてくるなと釘を刺し、鞄を引っ掴む。薄暗く人けのない場所へ急いだ。
 話は結局、聞けずじまいだった。掃除なんかサボればよかった。銀杏いちょうの樹の下には、枯葉と腐った実が敷きつめられていた。呼び出した当人はそこで心臓を干していた。色白な肌はさらに蒼白かった。育ちかけた胸には小刀が突き立てられていた。
 突き立てられていたのは、ほかにもあった。中指だ。
 丸い革靴を履いた両足が、血の海に投げ出されている。長い黒髪、カーディガンをはおった華奢な肩……。扇形の枯葉が、長身へ舞い降っていた。まるで人形みたいに見えた。
 お嬢はそのようにして全世界を挑発していた。

 図書館で初めてお嬢を見たのは、夏休みだった。そのときも彼女は長袖ブラウスだったように思う。
 ことさら暑い年で、極地の氷が溶けたと報じられた。東欧や中国では洪水。ボンベイやニューヨークでは、熱中症で大勢死んだ。通学路にある老夫婦の家のゴンは、脳がすっかりやられた。学校が始まるころには、眠ってない限りずっと吠えるようになった。彼は二年と七ヵ月吠えつづけ、疲れきって死んだ。
 アスファルトは砂ぼこりを乾煎りしていた。傘立てには開館以来、なぜか骨だけの傘が差したままだった。自動ドアを二つくぐると、冷気が心地よかった。
 教団の眼を盗んで図書館へ通うのが、唯一の楽しみだった。宿題もここでした。夏は涼み、冬はぬくんだ。うちで冷暖房の恩恵にあずかれるのは、父と幹部らだけだった。板張りの道場は夏は蒸し暑く、冬は凍える。そこで一般信者らは、裸足と薄っぺらな白服一枚で通さねばならなかった。
 その日も夜のお勤めに備え、息抜きに訪れた。新着棚から児童書コーナーへ。一般書を経て、入口そばの雑誌を読むのがいつものコースだった。一巡したところで気づいた。窓際のソファーで読書雑誌の頁をめくる姿に。
 それまで図書館で同級生を見たことはなかった。テライ食品創業者の孫、現社長のご令嬢。五年二組、いや校内でもいちばんの美少女と噂される彼女が、夏休みに近所で暇を潰すとは。
 晴彦もそのときはいなかったが、僕は身のほどをわきまえていた。年中誰かのお下がりを着ている。公家みたいに眉が薄い。捜し物の天才との評判で、辛うじてイジメを免れている。そんな子供だった。お嬢に声をかける代わりに、地下のAV資料コーナーでキートンの喜劇を観た。彼はまるで死のうとしてるみたいだった。一階へ戻ると、彼女はもういなくなっていた。
 その夏のあいだ、何度かお嬢を見かけた。たいてい日本文学か評論のコーナーで、重そうな装丁の本を読んでいた。新書判の現代詩全集のときもあった。僕には別世界の住人だった。
 晴彦は貧弱な体格だった。僕より背が低く、眼鏡をかけていた。聞きとりにくいキンキン声でしゃべった。いつも自信なさげで臆病。たまにキレるという噂があった。他人にはわからない理由で急に暴れだし、手がつけられなくなる。この前年、中山仁美の縦笛を盗んだのがこいつだ。
 仁美はいつも取り巻きの女子連につき従われていた。親衛隊めいた熱烈なファンクラブさえあった。華奢で儚げ。誰もが世話を焼きたくなる。どんな悪童も、彼女にだけは手を出さない。彼女のためなら誰もが労働を惜しまなかった。校内で二番目の美少女といわれていた。お嬢は性格に難があるとされ、人望の面で比較にならなかった。
 笛の盗難は、学級会で最重要議題になった。四年三組は校内を大捜索した。担任の瀬川は、人のいいおばちゃん先生だった。彼女は慈悲ぶかく宣告した。「盗ったひとは放課後、正直にいいに来なさい。内緒にするから」
 騒動は結局、僕のひと言がきっかけで解決した。「湯山先生のとこにあるかも。預かった落し物を忘れてそう」
 ビンゴ。生徒らの叱責を浴び、やかん頭の音楽教諭は頭を掻いた。音楽室の忘れ物を見つけたきり、返すのを忘れていたようだ……と彼は弁解した。だが事実は違った。
 僕はその日、翌日提出の漢字ドリルを図書館でやろうとして、教室に忘れたのに気づいた。引き返したのが運の尽きだった。隣のクラスの晴彦が、仁美の席に座っていた。
 教室は夕焼けに照らされ、影が長く伸びていた。僕は体育着の袋を落とした。晴彦は縦笛をしゃぶっていた。
 相手は変質者だ。逆恨みされないとも限らない。泣き喚く晴彦を、僕は必死でなだめた。そして揉み消しに手を貸すはめになった。
 職員会議の隙を狙った。針金クリップで鍵をこじあけ、音楽準備室へ忍びこむ。湯山は空き箱に私物を溜めこんでいた。定規や鋏。絶縁テープ。使えなくなったペンや鉛筆。お菓子の包み紙などだ。そこへまぎれこませた。
 クリップの使い方は幼稚園時代、潰れた声の不良に教わった。短期間で道場から姿を消した少年だ。性根を叩き直すため、親に合宿に参加させられたと話していた。今はどこでどうしてるやら。
 それ以来、どこへ行くにも晴彦につきまとわれるようになった。彼は図書館にまでついてきた。僕はやがて解決策を見いだした。マン・レイや荒木経唯の写真集を与えとけば、彼は何時間でも喰い入るように見つめた。写真雑誌の最新号がヌード特集なら、これで数日は楽になると安堵したものだ。
 ブラジルの財布を拾ったのは翌年。これは偶然だった。教職員用の手洗い場に落ちていた。朝から捜していた、と担任はいった。そのふたつがもとで、漫画じみた評判を獲得することとなったのだ。誰もがからかい半分、半ば本気で僕を呼んだ——難事件をたちまち解決する名探偵、と。
 その日はあいにくヌードは種切れだった。僕は書架に隠れながら奥へ急いだ。晴彦は玄関から館内を見まわしている。整った容姿の少女が、ブラインドごしの陽ざしを背に、『銀河鉄道の夜』の大型本を読んでいた。彼女の姿勢は、背中に定規でも入れたかのようだった。
 考えている暇はなかった。お嬢の隣へ座り、片方の頁を奪って顔を隠した。晴彦は首をひねりながら立ち去った。お嬢は身を遠ざけるでもなく、ただ冷ややかに僕を見下ろしていた。初めて嗅ぐ甘い匂いがした。
「海豚が出ないやつだね。僕はブロカニロ博士のが好きだな」苦し紛れの言葉は、煙となって消えそうだった。
 彼女は低くいった。「あなたの読んだの、初期稿が混ざってるみたいね」
 それがお嬢と交わした初の会話だった。
 それから図書館では会釈を交わす仲となった。帰り道に短い会話をすることもあった。つまり晴彦がおらず、お嬢の機嫌も良ければということだ。放課後の図書館通いは、ただの気晴らしではなくなった。学校では変わらず空気みたいに無視された。
 発狂しそうな暑さは、やがて北風にとって代わられる。銀杏が色づき、腐った実を落とす。季節が変わっても曖昧な関係はつづいた。お嬢がどう思っていたかは知らない。晴彦は相変わらずだった。無視する習慣がついた。
 お嬢が現れる瞬間を見たことは、なぜか一度もなかった。玄関を気にするうちは来ない。本や雑誌を眺め、ふと顔をあげる。すると何時間も前からそうしていたかのように、窓際で文学全集を読んでいた。姿勢が美しかった。本を盾にして盗み見た。
 伸びた背筋。黒い絹を思わせる、長く垂れた髪。透き通るような白い肌。小さく引き締まった瓜実型の顔。長い睫毛に挟まれた、切れ長の瞳。淡く薄い唇。本を支えるしなやかな指。桜貝みたいな爪。襟までボタンをかけたブラウス。脚はいつも長いスカートに隠れていた。
 寺村輝夫全集を読破した日だったのを憶えている。余韻を味わいつつ、お嬢に見とれた。晴彦が視線を遮った。
「ねえ見てよ。マンガあるよ。マンガだよ」
 聞きとれない文句を並べ、「ねーっ、ねーっ」と首を傾げつづける。この頃には彼の奇矯なふるまいにも慣れていた。多少騒がれても平気で活字を追えたくらいだ。でも限度があった。館内の視線を集めていた。
 お嬢は急に立ちあがった。本を書架に戻し、冷ややかな一瞥をくれる。僕は彼女を追った。
 自販機コーナーで平身低頭した。玲子の静かな口調が怖かった。
「なんなの彼。お友達でしょ。注意しなさいよ」
「しても通じない。莫迦なんだよ」
「いいコンビ」
「違うって」
「今日は騒がしかったわね。あなたたちだけじゃなく」
 年配の利用者が増えていた。ぶつぶつ独り言をつぶやく。鼻糞をはじき飛ばし放屁する。妻に大声で一方的に話しかける。つまらぬ用事で若い女性職員を振りまわし、意味不明な長広舌をふるう。損壊したり盗んだりする者も多かった。
「それより何読んでたの」
「『虞美人草』」
「難しそうだね」
「そんなことないわ。当時の娯楽小説だもの」
「ふうん。誰の本」
 お嬢は呆れた眼でじろっと見た。「漱石よ」
「知ってるよ。冗談さ」
 すぐに文庫本を借りた。次に会話の機会が巡ってくるまで読み込んだ。
「あれ、集団リンチじゃん。寄ってたかって追い詰めて。男尊女卑そのものだよ」
 図書館からの帰途だった。お嬢は可能なかぎり距離をとっていた。僕が勝手についてきただけだ。いつもそうだった。
 その歩道は銀杏ぎんなんロードとして知られていた。扇形の枯葉と、白く腐った実。それらが幾重にも敷きつめられ、踏み固められている。注意ぶかく歩いたつもりでも、僕の運動靴は黄色くまみれた。普通に歩いているかに見えるお嬢の革靴は、ピカピカのままだった。
 埃っぽい排気ガスをまき散らし、車は激しく行き交う。その音にかき消されまいと、僕の声はやたら高くなった。
「それは表層的な見方ね」
 忍耐づよく聞いたのち、お嬢は静かに見返してきた。なぜかこのときだけは、蔑みの色が感じられなかった。
「当時は社会倫理との対比で照らし出すしかなかった。現代の人権意識とは相容れないから、藤尾が被害者に見える。でも実際はそう単純じゃない。登場人物は全員がんじがらめにされてる。封建社会のしがらみでね。それで結局、誰ひとり幸せにならないの。勧善懲悪パターンにのっとって書かれたにも関わらず」
 そしてつけ加えた。「藤尾はたしかに悪いのよ」
 この言葉の意味を知るのは、何もかもが手遅れになった後だった。

「ふーん。でおまえ、誰が好きなの」
 どのクラスにも、体育だけは得意なお調子者がいるものだ。タカケンこと高橋健太は、そんな人気者だった。色黒で出っ歯。『ズッコケ三人組』のハチベエと、『ゲームセンターあらし』を足して二で割ったような風貌。秘密にする、と彼は請け合った。秘密も糞もない。オルガンに集う女子グループが、白い視線を向けていた。健太の席を囲んだ昼休みのことだった。
「俺、凛子」
「デブじゃん」
「あの豊満さがいいんだよ」
「ま、母性は感じさせるね。おまえは」
「美佳かな」
「ふーん。つまんねえ……」
「なんでだよ」
「普通に可愛いもん」
 とうとうお鉢がまわってきた。「で、マロは」
「寺井玲子」
「お嬢?」
 みんな噴き出した。爆笑の渦。
「おまえらしいや」
「確かに超美人だけどさ。頭いいし」
 みんな腹を抱えた。机を掌でたたき、呼吸困難に陥るやつまでいた。僕は唇を尖らせ、憮然とした。
「じゃ、どこが悪いんだよ」
 タカケンが馬みたいに喘いだ。「性格に決まってんじゃん。男なんか一切興味なし」
「つうか人間に興味なし、みたいな?」
「庶民を見下してる。あんたたちみたいな莫迦とは違うって」
「ほんと惜しいよな。あとは完璧なのに」
「金持だからってお高くとまって。あいつん家テライ食品だろ?」
「らしいよ。前の社長が祖父さんで、今は父親だって」
「俺、あそこの漬物喰ったら腹こわした」
「嘘マジ?」
「糞まずいよ。賞味期限ごまかしてんじゃねえの」
 テライ食品の悪口で盛り上がる。僕は強引に割ってはいった。
「そういうおまえは誰なんだよ」
「当然、仁美ちゃんだろ」
 タカケンは得意げに断言した。芋のメイクイーンそっくりの井上長助は、眼を糸みたいに細めてうっとりした。
「いいよな、あの子は」
「美人で可愛くて性格よくて」
「気がきくし」
 腕組みし頷く者。身悶えする者。彼らは口々に叫んだ。
「おー仁美ちゃん、愛しい人よ!」
「部屋に飾っときたいくらいだぜ!」
「結婚してくれー!」
 最後の発言者は、全員にぽかっと殴られた。
 大瀬川の堤防。あそこでお嬢と話したのは、その放課後だったか。普段はつくりつけの時計の針が四時四十五分をまわると、彼女が静かに本を閉じて席を立つ。僕もあとに続く。それがこの日は一時間も早かった。
 不似合いな赤いランドセル。足早に歩く玲子に、数メートル遅れてついていく。突然いつもの道から進路が変わった。河原へつづくコンクリートの階段。寺井家の屋敷とも、学校とも方向がちがう。
 プライヴァシーに踏み込むようで、躊躇した。でも不快なら態度で示すはず。一定の間隔を保ってついていった。長い階段を降り、野球のグラウンドの脇をすぎた。あのときの不安が何か、今はわかる。入水自殺でもしかねない気がしたのだ。
 雑草の生い繁る土手で、お嬢は鞄をおろした。長い裾を整え、斜面に座った。水面が夕焼けを反射してきらめいた。中州の釣り人が、逆光でシルエットとなっていた。対岸のテニスコートの前を、自転車の若者が通りすぎた。
縁部へりぶ君」玲子は左手で膝に頬杖をつき、流れを見つめていた。僕は思わず周囲を見まわし、同姓の誰かを探した。「いつも何読んでるの」
「面白けりゃ何でも。こないだ『それがぼくには楽しかったから』っての読んだよ。ひきこもりの青年が——
 講釈は余計だった。近づく僕を、玲子は煩わしげに見上げた。「よく心理学コーナーにいるわね」
 驚いた。気づかぬうちに、逆に観察されていたのだ。
「入門書なら、たまに」
「『毒になる親』は?」
「読んだの?」
「座ったら……」
 隣に腰をおろした。秋風が雑草をざわめかせ、彼女の長い髪を乱した。甘い匂いが鼻先をかすめる。陶器の人形みたいな横顔が、夕陽に映えていた。瞳が光を透かして金色に見えた。薄い唇はオレンジ色。髪はやはり艶やかな黒だった。
「意外だな。お嬢とあの本のとりあわせ」
「私のこと何も知らないのよ」
「お嬢の親ってどんな人? 授業参観でも見たことない」
「母はデザイン事務所の社長。笑わないでね。ファッションデザイナーよ。通販とかスーパーのだけど。妹を連れて離婚したの」
 声に自嘲が感じられた。そんなお嬢を見たのは僕だけだったろう。人前で感情を表さない子だった。「うざい」「重い」といった評価を誰もが畏れていた。
「父は私が死のうがグレようが、どうでもいいの。みんな噂してるでしょ。なんで私立に通わないんだろうって。なぜかわかる?」
「さあ……」
 僕自身ずっと不自然に感じていた。逃げだしたい気分になった。
「お金がかかるからよ。父はお金が大好きなの。よくある話よね。簡単に割り切れそうで……でも端数は伝わらない」
「だから本があるのさ」
「子供っぽい」
 君だって子供じゃないか。その言葉を呑み込んだ。
 思いもよらぬ告白に、僕は図に乗った。他人にわかってもらおうなどと、愚かな考えを抱いたのはそれが初めてではない。気を許しあった仲であるかのように錯覚した。
 言葉がひとりでに溢れ出た。
「うちは宗教を経営してるんだ。教育委員会や県警幹部にも、熱心な信者がいるよ。政治家だって出入りしてる。母さんは禊の儀式で死んだ。邪念が多くて耐えられなかったんだ。父さんは神様でね、天啓のときはすごいよ。愛の儀式ってのがあって、神通力をおすそ分けしてもらうんだ。旦那さんとか彼氏とか親兄弟とか、まわりで伏し拝むんだよ。みんな神通力で幸せになる。だから喜んで御布施を払うのさ。そうすると功徳になってもっと幸せになるんだ。今の巫女は僕が小二のときから父さんの——
 玲子が鞄を背負ったので、僕は話すのをやめた。彼女は一度も振り返らずに立ち去った。翌日は図書館に現れなかった。

 そしてあの放課後。
 机を下げる騒音が、どの教室からも聞こえていた。いつもと異なる点は何ひとつなかった。箒と雑巾を手に廊下へ出た。読みかけの本について考えていた。玲子と口がきけなくなったのは気にしていなかった。いわば採点ミスの八十点を、六十九点に直されたようなもの。もともと身分不相応だったのだ。
 愉しげな笑いや嬌声。アイドルの話題で盛り上がる女子。鞄持ちのジャンケンをする男子。廊下を駆ける足音、教師の叱る声……。行き交う生徒たちのなかに、菫色のワンピースが見えた。鼓動が高鳴った。表情に出さぬよう努め、他人のふりですれ違った。
「体育館の裏。話があるから」幻覚ではなかった。冷やかな短い囁きが、確かに聞こえた。
 振り返りたいのをこらえた。生徒の往来を縫うように、階段を掃いて拭いた。誰かの冗談に愛想笑いした。話がある。お嬢が僕に。班長が解散を宣言するなり、教室へ駆け戻った。
 晴彦は恩人の姿を認め、顔を輝かせて迫った。「ねえ僕きのうカナヘビ捕まえたよ。黒くてねー、ちっちゃくてねー、舌ピョロピョロしてんの。それでねー、わさわさっと動くの。それでねー」
「急いでんだ。明日聞いてやるから。ついてくんなよ」
 棚から鞄を引っ掴み、教室を飛び出した。何人かにぶつかりそうになった。鞄が狂ったように跳ね踊り、背中をどやしつけた。階段を駆け降り、外靴に履き替え、校舎の裏手へまわった。
 お嬢の姿はなかった。
 息を弾ませ、周囲を見渡した。枯葉の絨毯に何かが散乱していた。教科書やノート。筆記用具。赤い鞄は蓋があいた状態で転がっていた。内臓をぶちまけられた生き物のように見えた。
 あまりに突拍子のない光景は、すぐには認識できないものだ。絞り染めのワンピースに気づいた。銀杏の樹に縛りつけられているのは、よく見ると人形ではなかった。
 最初は何かタチの悪い冗談だと思った。それから少女を幹に縛りつけているのが長縄だと気づいた。クラス対抗の縄跳び大会なんかに使うやつだ。赤く染まっていてわからなかった。
 ひどいイジメもあったものだ、と思った。それから挑発するような中指に気づいた。その子が仲間と協力して僕を脅かそうとしたんだ、そう信じようとした。奇抜な悪戯だと。
 脅かそうとしたのかもしれない。違うかもしれない。いずれにせよ本人の意思でないのは確かだった。それが誰であるかに気づき、赤いものの正体がわかって、僕は腑抜けみたいに立ち尽くした。
 玲子の心臓から流れた鮮血の色を、僕は生涯忘れないだろう。

 お嬢は手を顎へつけるようにして中指を立てていた。右眼のすぐ下にある、小さな貝のような爪。それはもはや桜色ではなかった。切れ長の眼からは、あの力強い輝きは失われていた。愚弄のポーズが彼女を、蝋人形みたいに不自然に見せていた。
 胸に突き立てられた小刀には、見憶えがあった。図画工作で使うやつだ。左手は凶器を掴む前に力尽きたか、離してしまったのだろう。そのまま縛られたように見えた。長縄は印画紙よろしく、その不自然な瞬間を固定していた。見ようによっては十字を切ろうとしてるかにも見えた。
 青ざめた滑らかな頬。おそるおそる頚動脈を探った。彼女に触れるのは初めてだった。おかしな話だが、イメージ通りの冷たさだった。医学知識などなくても手遅れだとわかった。
 話があるから、とお嬢はいった。重要な打ち明け話でもあるかのような口ぶりだった。「体育館の裏。話があるから」最後の声が耳の奥にこびりついていた。以来彼女を想うたび、この声がよみがえった。話が。話があるから。
 ほとばしる水音に振り向いた。体育倉庫の陰に、晴彦が立ちすくんでいた。蒼白の顔が、笑い損ねたようにひきつっていた。足許に広がる溜まりから、湯気が立ちのぼった。
 臭気に頬をひっぱたかれたような気分になった。僕は彼の傍らを、靴を濡らさぬように駆け抜けた。遺体を背にして初めて、尿とは異なる臭いに気づいた。生々しい血の臭いだった。
 五年二組の担任はブラジルだった。本名は上井戸達郎という。綽名の由来は誰も知らない。何代も前の上級生が呼びはじめたのだろう。三十六歳独身。土気色の馬面、ぼさぼさ髪。手脚は電柱のように長かった。戸口をくぐるとき、頭をぶつけないよう背中を丸める。小学校へ来る前はいろんな場所で教えてたようだ。そのせいか授業に引き込む術に長けていた。
 長身を持て余すかのような身振り。精力的に黒板の前を往復し、机間巡視する。言葉には呪術的なリズムがあった。誰かがちょっとでも戸惑えば、身近な例を引き合いに、別の側面から補強する。生徒の集中力が途切れる前に、絶妙の間合いで質問する。それにあの冗談。
 あとで冷静に考えれば、どこもおかしくない。なのに僕らは気が触れたように爆笑した。気づけば自然に本筋へつながっている。畳みかけるような指名に誰もが即答する。勢いに呑まれるのだ。
 胸の悪くなるような快感——彼の授業にあったのはそれだった。
 誰もが熱病に浮かされた。でも心から打ち解けることはなかった。彼が教室にいると、眠る猛獣を前にしたように神経がはりつめる。そばを横切られると、体が無意識にこわばる。けっして厳しくはない。むしろ配慮が精確すぎて薄気味悪いのだ。職員のあいだでも孤立してるように見えた。
 階段を駆けあがり、廊下を疾走する。肺と心臓が破裂しそうだった。叩きつけるように引き戸を開けた。担任は漢字プリントの採点をしていた。赤ペンの滑る音に、荒い息が加わった。教室には彼と僕しかいなかった。シュシュシュ、シュルルー。あ、花丸だな。
「どうした縁部」
 本名で呼ぶのはお嬢と彼くらいだった。窓から射し込む夕陽で、頬のこけた顔が陰になっていた。一枚めくって次の答案。シュッ、シュッ。
「帰らないのか。忘れ物か」
 僕は戸に手をかけたまま、肩を上下させていた。何をどういえば。酸素をかき集めるのに手一杯だった。
「図書館へ行くんだろう」
「なんで知ってるの」声が脳天から飛び出した。
「職員に知り合いがいる」シュッ、シュッ、シュッ。
「お嬢が殺された」
 赤ペンが動きを止めた。上井戸が顔をあげ、振り向いた。表情は見えなかった。
「体育館の裏で。胸を小刀で刺されてる」
 僕は予定を書き込む小さな黒板を見た。給食袋が並ぶフックに、ひとつだけ何もかかってないのがあった。それを指さした。
「長縄で縛りつけられてる。銀杏に」
 担任はペンにキャップをはめ、答案の上に置いた。おもむろに立ち上がり、僕に近づいた。大きな影は威圧感があった。
「行こう」
 低い声でいい、僕の肩に手を置いた。熱い手だった。
 晴彦は立ち枯れた木みたいに無視された。相手をしてやる余裕はなかった。上井戸は銀杏の前で沈黙した。いうべきことは僕にもなかった。黄金色の腐った実、溢れ出た血、冷えた小便……臭いの入り混じる風が、枯葉を転がした。
 ブラジルは遺体へ近づいた。お嬢の顔は蝋人形のようにしか見えなかった。担任は彼女の手指をほぐすように広げた。僕は葬式に参列しなかった。担任がどうしたかは知らない。でもこの瞬間、僕たちは確かにお嬢へ別れを告げたのだと思う。
 短い儀式が済むと担任は、職員室の先生方を呼んできてくれと頼んだ。僕は溜まりを踏まぬよう注意し、晴彦の脇を過ぎた。振り返ると担任は、携帯で警察に通報していた。
 普段からは想像もつかない、冷静な声だった。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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