自然に共感できる小説を読みたいと願っています。 多くの本は登場人物の思考や感じ方になじめず、 読み進めることすらできません。 流通を許された言葉は、 疎外された人生とは異なる世界を生きているかに思えます。 わが国では多数派は多数派であるがゆえに正しいとされます。 かの専門家によれば 「ニーズ」 から逸脱すれば 「笑われ、 淘汰され」 ます。 すなわち社会から疎外され生きづらくなります。 インターネットの大手書店では書かれた言葉の 「ニーズ」 すなわち 「正しさ」 はアルゴリズムが決めます。 ひとはアルゴリズムが上位表示したものをクリックし購入します。 買われなかった言葉、 認められなかった言葉は 「淘汰」 されます。
共感や受容や愛情といった、 いわゆる 「人間性」 は技術ではないかと感じることがあります。 実行に正確さの要求される技術です。 愛情ひとつとってみても、 取り扱いを誤れば単なる執着や支配となります。 世渡りのうまい人間にとって、 人生は状況をいかに利用するかで勝敗が決まるゲームです。 他者の存在や対人関係も、 そのための道具立てです。 「人間性」 は状況を利用する手段となります。 善人面をして他者を踏みつけにする。 いいかえれば社会的プロトコルへの最適化は 「人間性」 の排除と、 それと同時に行われる演出ないし偽装によって実現します。 あらかじめそれを意図して設計された機械のほうが、 人間よりも適確に実行できるはずです。
2015 年にヒットした英国映画 『エクス・マキナ』 は、 サディストに監禁された女性が訪問客を騙して男たちを殺害し、 自由を得る物語でした (観客の予想通りに展開する映画なのでネタバレには該当しないと考えます)。 この AI は 「人間性」 を 「社会的プロトコルへの最適化」 と捉えた場合には、 犯行が露呈しないかぎりにおいて、 その機能を忠実に実現したといえるでしょう。 この AI は目的のために平気で殺害や、 恋愛感情 (支配者である男たちに都合のいい幻想) の偽装による対人操作を行います。 そこでは性は他者を支配する道具として語られます。 男は暴力に性を利用し、 結末で加害者に転じる被害者もまた性で男を支配します。
エイミー・トムスンの SF 小説 『ヴァーチャル・ガール』 もまた AI を題材にしています。 四半世紀前に書かれた性暴力サバイバーの寓話です。 近親者の暴力で魂を殺された主人公は、 やがて支配から逃げ出し、 理解者と知り合って社会的弱者の支援をするようになります。 この物語では 『エクス・マキナ』 とは逆の (しかしよく似た) 立場から性が語られます。 本来それは自分の身体を自在に肯定するものでした。 しかし現実には人間性を抑圧し、 疎外し、 毀損するものでしかなかった。 支配から逃れた主人公は、 他者を幸福にするのに自らの性を役立てようとします。 その試みは成功しましたが、 奪われるばかりで自分は取り残されたままでした。 「多数派」 とは異なる人生を受け入れ、 距離を置くことで主人公は解放されます。
性は個人の身体や魂に属します。 と同時に社会的な関わりでもあります。 言葉もまた同じことです。 身体や魂の自由が社会的にどのように扱われるか。 うまく生きられる人間ばかりとはかぎりません。 個人的な事情をひとつ負うたびに 「多数派」 から離れます。 社会的に正しいとされる姿を演じても、 積み重なればどこかに無理が生じます。 そのようにして苦しむのが人生だとすれば、 「ニーズ」 から生まれる商材はひとの感情からはかけ離れていくでしょう。 アルゴリズムの要求と 「淘汰」 を経て進化した小説は、 いずれ人間には理解不能になるはずです。