杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第40回: Everybody Needs Somebody to Love

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.07.20

 左薬指に指輪をはめた。みずから進んでそうした。流されることを自分の意思で決めた。
 遅れる旨を助手席で母親にメールしたのち、誠一郎に指輪を持っているかと問うと案の定、麻のジャケットのポケットから当然のように小箱が現れた。ドラえもんかよと明日香は思った。ふたりで移動するときはつねに肌身離さず持ち歩いていたのだ。薄々気づいてはいたが改めて背筋が寒くなった。
 左薬指の光を曇り空にかざして確かめた。タマミによれば婚約指輪としては標準的な代物らしい。四十万という見立ても適切だろうという。ユニクロやZARAやGAPといったファストファッションにしか縁がなく、装飾品といえばなくしたピアスを数少ない例外として、あとは小学校の同級生が親に買い与えられていたサン宝石くらいしか知らぬ明日香には、大きさも輝きも派手すぎる気がした。普段身につけるものではないからそんなものなのかもしれない。
 いささか窮屈な気もした。大きさが合わぬのか感覚過敏のせいかわからなかった。化粧と同じ理由でよほど気に入らなければ指輪もしない。発達障害者は些細な刺激に過敏だったり、逆に大きな刺激に鈍感だったりするものらしい。そのことは数日前にウェブで調べて知っていた。発達特性を周囲に話して理解してもらいましょうと記事には書かれていたが、そんなのはただのわがままだという気がした。社会生活をしたければ自分が周囲に合わせねばならない。
 緩ければ気づかぬうちに紛失する。きついくらいでちょうどいいのだ、苦痛でも容易には抜けぬくらいで。そう自分にいい聞かせた。大粒のダイヤならまだしも結婚指輪ともなれば外す機会はないのだし、とも思った。誠一郎はあたかも当然の日常であるかのごとくに平然と運転している。だが明日香にはわかっていた。彼は助手席をこれ以上ないほどに意識している。隠すのが巧いだけだ。
 雨はやんでいたがまたすぐに降り出しそうだった。この指輪で窓を打ったら割れるだろうかと考えた。元夫に近づくなと脅迫する柳沢美彌子の表情を思い描いた。それこそ些細な衝撃で決壊しそうに見えた。
 美彌子があたしをトイレに連れ込んだのは泣いた女なら化粧を直す必要があると早とちりしたからではないか。うがち過ぎだろうかと明日香は考えた。美樹が陸を気遣うように、美彌子もまた社会的能力のない歳下の女をつい気にかけたのではなかろうか。
 よくないと知りつつも母の世話を焼いて子供時代を無駄にしたあたしのように。
 直後に否定しながらも美樹や陸に似ているとあえて指摘したのはそのせいかもしれない。あの女はあたしと同じなのだ。美樹のために好き好んで人生を犠牲にしている。そういうものに引き寄せられる人間なのだ。そう考えるとあれほど手ひどく侮辱されていながら彼女を憎めなかった。
 清高誠一郎は車を家の前に停めた。呼び鈴を鳴らすとすぐさま扉がひらいた。目に入った顔が光丘秀蔵でなかったので明日香は驚いた。母親は別人のように一音階高い声で娘の婚約者を出迎えた。仕事もせずにずっと待ち構えていて、車の音に反応して飛び出してきたらしい。化粧も服装も完璧で何かの授賞式にでも出るのかと疑わせた。娘に向ける顔だけは遅刻のせいで不機嫌だった。母自身はかつて一度たりとも約束を守ったためしがないのに。
 母は玄関先で要点を得ない挨拶を長々とはじめそうになった。察した光丘秀蔵がすかさず背後から例の爽やかな笑顔で「さあどうぞ上がってください」と促した。さすがチーフアシスタント兼愛人、ナイス助け船と明日香は思った。この男なら確かに母を制御して社会的に適切なふるまいをさせられるのかもしれない。子供時代の自分が求められて果たせなかった役割だ。
 子の婚約者を初めて迎える親に指南書があるのか明日香は知らない。あるとすれば清高家の両親は熱心に事前学習をしたことだろう。参照した情報がいささか古かったにせよ温かい人柄は伝わった。しかしそれでさえ参加者全員がぎこちなく、居たたまれない想いを隠せなかった。母とにこやかに会話する誠一郎の後について廊下を歩き、彼の社交能力に改めて感心しながら、明日香は寿司桶を思い出して不安になった。まさか母はあの意味不明な汁物をふるまおうなどと考えていやしまいか。
 大丈夫ですよ、と背後からいわれて振り向くと光丘秀蔵が微笑んだ。その言葉の説明はなかった。明日香は彼を信じて運命を委ねることにした。
 居間でケーキと紅茶を出された。ケーキは秀蔵が近所のそこそこ人気のある店で調達したらしい。彼のことは誠一郎には事前にチーフアシスタントとして説明してあった。兼、のほうは伏せた。彼自身もこの場でわざわざ事実を明かしはしなかったし、誠一郎も触れなかった。幸いにも母も余計なことをいわなかった。単に紹介する発想がなかったのだろう。シュウ君はシュウ君よ、以上の語彙を持つとも思えない。
 母はiPadを持ち出してきた。仕事自慢でもはじめるつもりかと危惧したがそうではなかった。表示されたのは明日香の幼少時の写真だった。そんなものが存在するとは夢にも思わなかった。子供の頃は運動会や学芸会などのたびに、親や祖父母に撮影される友人を羨ましく思ったものだ。誤解していたのかもしれない。支離滅裂ながらも母なりに親らしい気持を持っていたのか。胸に熱いものがこみ上げた。
 そうではないとすぐに気づいた。よく考えれば録画すら娘にやらせていた母にカメラなど扱えるはずがない。どの画像にも愛情のこもった視線が感じとれた。撮影者は母ではあり得ない。
 父が撮ったのだ。
 しかし時期がどう考えてもおかしかった。父が去ったのは明日香が小学校に上がる前のはずだ。あれほど憧れた運動会や学芸会の写真が現実のものとしてそこにあった。撮られたどころか父に再会した記憶もない。遠くから盗撮でもしたのだろうか。写真を元妻に手渡すくらいなら娘にひと声かけてくれてもよかったのに。出て行ってからも母にはたびたび逢っていたらしいが、それにしても不自然だった。何かこう、首だけすげ替えたコラージュ画像のような……。
 はっと気づいて光丘秀蔵を見た。ばれたか、という表情で彼はそっと肩をすくめて笑った。
 チーフアシスタントの職名は伊達ではない。彼がフォトショップの魔術師であるのを明日香は知った。それでも元画像は必要だったはずで、その入手経路が見当もつかなかった。不鮮明ながら写っている女児は他人とは思えない。着ている服にも記憶がある。この謎の答えはついにわからぬままだった。秀蔵は明かさなかったし、明日香も問い詰めてまで知りたくなかった。
 母は写真を指さしながら架空の想い出を語っている。捏造しながら信じ込んでいるのだ。昔から仕事に熱中すると現実との区別がつかなくなる傾向があった。そうでなくとも寝ているあいだに見た夢を実際の出来事と混同し、ほらトゥモロウちゃん、去年海に行ったときこういったじゃない、などと主張して戸惑わせたりした。
 その夏はあなたの仕事が忙しく家から一歩も出なかった、そもそも旅行や行楽地へ連れて行ってもらったことなどない、などと反論しても通じないばかりか不機嫌な態度をされる。感情に蓋をして調子を合わせることを幼い明日香は学んだ。その積み重ねがこの二十八歳だ。
 幼い娘との愛情に溢れる日々を語る母を前にして、明日香は惨めで泣きたくなった。母の頭の中ではそういうことにされていたのか。彼女の頭の中だけで。外側に出して実現する努力を少しでもしてほしかった。光丘秀蔵がどんなコネを使ったのか知りようもないが、もしも元画像を提供したのが本当に父であれば、遠巻きに見守るだけではなく実際に手を差し伸べてほしかった。
 うかつに口を挟めば決壊する。涙も恨み言も一気に溢れ出て止められなくなる。清高誠一郎に茶番を悟られまいと黙々とケーキを食べつづけた。なくならぬよう細かく刻んで口へ運んだ。冷めた紅茶をごくごく飲んだ。秀蔵が気を利かせてもうひとついかがと勧めてくれた。糖分と脂肪で胸焼けがした。いまはその苦痛がありがたかった。
 そのあいだ母は一貫して写真の女児をトゥモロウちゃんと呼びつづけた。
「その愛称は可愛いですね」と誠一郎はいった。「この頃からずっとそう呼ばれてたんですか」
「何いってんのよ本名よ」と母は答え、話してないのと明日香に問うた。
 もう少し時期を窺いたかったのに。明日香は渋々それが本名だと明かした。母は例の「素敵」だと思った逸話を得意げに披露した。いい話だと思い込んでいるのは明日香も知っていたが、娘の婚約者が当然のように感動してくれるものと決め込んでいたのにはさすがに呆れた。
 誠一郎の反応は田辺美樹を除くこれまでのどの男とも変わらなかった。彼は仰天した。彼女が可哀想だといった。彼女、という前に本名で呼ぶべきか躊躇したのが明日香にはわかった。そしてその態度に追い打ちされるかのごとく傷つけられた。改名させたほうがいい、そうすべきだと婚約者はいずれ義母となるはずの女に強く抗議した。あたかも本人がそこにいないかのようだった。あるいは彼らふたりが当事者であるかのように。
「そうかしら。あの頃は若かったからねぇ」
「キラキラネームには断固反対です。結婚相手がそんな名前なんて」
「それもそうね」母は何でもないことのようにあっさり同意した。「新しい名前、どんなのがいいかしら」
「ぼくが決めます」
 生まれてくる赤ん坊の名前じゃないんだぞと明日香は思った。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
ぼっちの帝国