杜 昌彦

GONZO

第25話: 触れる距離

書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2021.04.09

職場を出て待ち合わせの店へ歩きながら歯科医はマスクの内側で溜息をついた繁華街への移転費用のために思い切った借金をしていた緊急性のない治療を延期しろなどと厚生労働省が要求するものだから客は激減していた口腔衛生に配慮すれば感染リスクを減らせる旨を客や従業員にはもっともらしく説いていたがいくら器具を滅菌しゴム手袋をしてマスクを着用していてもミュータンス菌に侵された歯垢だらけの他人の口を腐った息を嗅ぎながら覗き込んでまわる日常に正直自分でも不安は拭えなかった呼吸器科や耳鼻咽喉科へ進んだ仲間に較べれば恵まれた境遇かもしれないが最前線で体を張る従事者やら医療崩壊やらの報道を見聞きするにつけ大学時代からの劣等感が増すばかりだったしまた一方ではリモートで働く高校の同級生らの家族や猫に邪魔をされる生活への愚痴が羨ましくてならなかった感染を恐れた妻は小学生の息子と保育園児の娘を連れて隣県の実家へ帰ったソーシャルメディアで短いやりとりがあるだけでこの数日は声も聴いていない
 疫病の流行からずっと人生の選択を悔やんでいた画面越しに会議でもしていれば給料がもらえる職業にどうして就かなかったろう大病院を経営する外科医と元看護師を両親に持ち海外の医大で教授をする兄と有名製薬会社で研究開発をする妹に挟まれた人生だからだ幼馴染みでもある初恋の相手を選ばずに家柄だけの女と一緒になったのも家族や親戚の顔色を気にしたからだ成績が足りずに歯学部を選んだだけで失望されるならいっそ国家試験ではなく地方公務員試験を受けて村役場にでも勤めればよかったバンドを解散しなければとも夢想したがどのライブ小屋はこも締まっているのでは同じことかもしれなかったかつて憧れた大御所の来日公演も中止になったと聞くもとより下戸であったから飲み歩けぬ不自由こそ感じぬものの愉しむことが罪であるかのような風潮は耐えがたかった鬱屈した現実から逃避できるのはあの奇妙な絵をソーシャルメディアで眺める時間だけだったそれもまた現実に輪をかけて暗い世界だったが見ていると何か黒い渦に吸い込まれるかのような気持になりすべてを忘れられるのだった
 ふと視線を感じ名を呼ばれたような気がして振り向いた雑居ビル入口の暗がりに黒ドレスの美少女が立っていたひだ飾りやらレースやらをあしらったいわゆるゴシックロリータのドレス細い三つ編みにした長い髪が左右に垂れている少女はこちらが気づいたのを認めると踵を返して奥へ消えただれかは思い出せないが知っている子どもそれも後ろ暗い弱みを握られている間柄であるかのように思えたあの絵と似た吸引力を感じたそれがだれで自分に何の用があるのか知りたくてたまらなくなったチタン製のスマートウォッチを確かめた約束の時間までまだ余裕がある強迫観念めいた不安に突き動かされて照明の消えたビルへ踏み込んだ相手は蔑むかのようにこちらを窺いながら暗い階段へ消えた歯科医はその少女を逃がしてはならない気がしたなぜかは自分でもわからないが看過するのが怖ろしく網タイツとエナメル靴を追わずにはいられなかった息を切らして階段を駆け上がった少女は最上階の男子便所へ消えたそこで話そうというのかだれの助けも呼べぬような目につかぬ場所で……歯科医は恐怖に抗って扉を開けた
 同じ頃姫川尊は列車の通過する轟音に紛れて空き缶を続けざまに撃ち抜いていた橋脚前に並ぶ空き缶は踊るように弾け飛び草むらや砂利へ散った自称公安の箱沼が満面の笑みで大げさに拍手した写生していた場所からは離れているがいまだだれにも見咎められぬのがミコトには不思議に思えた忙しく探り歩いているのは窺えるが何をしているかはひと言も教えてくれぬ犬顔の肥った家庭教師や彼に救われ地の果てまで連れてこられながら隠れて別の男や女と逢っていても何ひとつ関心を持たれぬ自分に彼は不満や後ろめたさそれに何より苦い苛立ちをおぼえていた姫川事件が飽きられて報道合戦が下火になりはじめてもなお命運を左右する殺人犯にして誘拐犯の人となりを理解できぬことに苛立った
 抑圧的な家庭から解放された自由を味わえたのは最初の半月だけで自称公安の箱沼から銃の撃ち方を教わる頃にはアパートでの暮らしにも以前とさほど変わらぬ息苦しさを感じはじめていたホテルで銃撃を褒められたのを最後にミコトは何であれゴンゾから肯定的な評価を得ることはなかったしマスティフ犬を思わせる蟹目のサングラスをかけたその肥満顔に機嫌のいい薄笑いを見出すことも絶えてなかったがそれに引き換え箱沼は胡散臭さにかけては殺し屋と大差なくとも対照的に気さくで面倒見がよく河原の高架下で正しい銃の構え方をミコトに伝授しミコトが空き缶を射貫くたびに陽気に拍手してくれたおじさんと一緒によその街へ行こうと誘われて言下に拒絶しつつも心が動いたのは否定できない
 携帯電話ではしくじったミコトもさすがにクレジットカードは足がつくと理解していたので一度も使うことなく早々に破棄していたが文字通りに血塗られた札束はいまだ手元にあり行方を眩まそうと思えばその金でいつでも可能だったにもかかわらずどう考えても罠でしかない別の男や時間の無駄でしかない年上の女との付き合いをだらだらとつづけながらいつまでとも何のためとも偽りの答えさえ得られぬまま指示されたアパートへあえて留まるのはひとえにゴンゾへの復讐めいた心理ゆえだった大事な人質を放置した報いを受ければいいとミコトは思っていたもろともに罰を受けることになろうが知ったことではなかった彼もまた殺し屋に負けぬ破滅願望の持主であったともいえようし親しくもない同級生を信用して痛手を負った件からしても後先を考えるだけの思慮に欠けていたともいえる
 姫川尊はそのようにして灰色のパーカと脱色したジーンズ運動靴といった扮装で男の待つ河原へ通い射撃の特訓を受けた初めて男装で出向いたとき箱沼は驚くでも別人と見紛うでもなくどちらの姿もすでに見慣れていたかのような態度を見せた昼間からぶらぶらしていることからも手に入れるのが厄介だとゴンゾがこぼしていた銃弾をふんだんに使わせてくれることからも箱沼が自称する肩書きはあながち嘘でもないかに思われた刃物の扱いやかわし方を教わる日もありいつでも不意打ちで襲うよう命じられていたが紙一重でかわされて腕をひねり上げられるばかりでミコトにはどうしても箱沼を刺すことができなかった別の日には黒ドレスと網タイツエナメル靴で女の家へ通い肖像画の制作を進めた窓際に座って宙の一点を見つめながら女はミコトの学校生活について尋ねたりその割には無関心で聴いていなかったりした本名で個展をひらいたり商売をしたりすると御しやすい相手と見くびられ支配欲の化け物めいた中年男が群がってくるだから疫病が流行する何年も前から商談はすべて男性的な名前でオンラインで完結させているのだと独り言のように語りもしたミコトは筆を動かすのに夢中で聴いていなかったし女も反応に頓着しなかった
 世間からも誘拐犯からも忘れられたかのような日々をミコトはひたすら弾丸で空き缶を穿ち絵具をキャンバスに叩きつけて過ごした報道される自分はもとより他人のようでだれの記憶にも留まらぬに等しかったが醜聞もネタ切れとなり芸能ゴシップに取って代わられたその頃には腕や指先の延長のごとき銃や筆によってミコトは醜い自我が薄れて何者でもなくなり世間に溶け込むのを感じていた
 梶元権蔵の側でも気づかぬではなかった美少年のいびつな傲慢さが裏打ちされた自信へと変容するのを殺し屋は見た拉致してからずっと煩わしく感じていたあの構ってほしげな恨みがましい目つきが人質から消えるのも見た酔い潰れて部屋から帰らなかった夜や公衆浴場で見た裸は引き締まりどちらの性からも羨望される輝きを増していたそれでも興味は持たなかったほかに気にすべきことがあったミコトが狙われる理由とその謎を解くよう仕向けた田澤老人の思惑であるそれは職業的な関心であるかもしれないし単なる好奇心かもしれなかった好奇心が身を滅ぼすなら望むところだとゴンゾは思った生まれてこの方消えることのなかった破滅願望が好機を捉えたかに感じられたのである老人に電話で問うてものらりくらりと交わされるのみで答えは得られず手間を惜しむなみずから見出せと暗に要求されるばかりだった古本屋とその娘を匿っている場所も教えてはもらえなかった中古屋の小溝老人を殺して成り代わった男に有力と思われる手がかりを紹介されていた邪悪であるほど疑われぬという例のジンクスを別にすればいかなる迷信も信じるつもりはなかったが必要なものほど手に入らぬという経験則から急がねば機会を逸するという焦りはあった
 そしてその予感は的中したのである
 呪いのアカウントは噂こそ全国に広がっていたが実際のフォロワーは限られたリストのひとりは同じ市内にいた待ち合わせた店に歯科医は現れなかった勤務先をゴンゾは事前に探り当てていた三十分待ってから店を出た途中で人だかりができており警察車両や救急車が停まっていた赤色灯は回転していたがサイレンは鳴っていなかったこれだけ人間が集まっていながらストレッチャーの車輪の音が聞こえるほど静かだった建物の隙間から引きずり出され検分されて黒い袋に収められた遺体が救急車に運び込まれるのをだれもが携帯で撮影したりソーシャルメディアに投稿したりしていたからだゴンゾは足を速めて通り過ぎた請け負った仕事で手を汚す社会病質の自分と他人の不幸を安全な高みから自己宣伝に利用する一般人のどちらが異常かと考えた人間とはそういうものだと結論した
 昼休みから戻る会社員に混じってエレベータに乗ったひとりは撮影した遺体を携帯で確かめていた四階で降りたのはゴンゾだけだったガラスの扉には鍵がかかっている待合室に客はいない呼び鈴を押すと奥から淡いピンクの制服を着た中年女が口をもぐもぐさせながら出てきて鍵を開けた女は咀嚼し嚥下して午後の診療は十四時からだといった面会の約束があったとゴンゾは説明したそういえば先生そんなこといってたわねと女は呟きゴンゾを待合室へ通して受付窓口の横にある扉の向こうに消えた窓口のガラス越しに固定電話で医者を呼び出す女が見えた出ないようだゴンゾは壁の掲示物や雑誌棚を眺めた仕事でもなければ訪れることのない場所だった被虐待児は虫歯が多いと聞くが子どもの頃から一度も歯科医の世話になったことはないそういえば虫歯の同業者を知らなかった知り合いの闇医者も歯科治療は請け負っていないようだこれもまたジンクスかとも考えたが道をはずれた生き方をすれば歯が穴だらけになる前に死ぬのだと思い至った
 廊下でエレベータが籠の到着を報せたゴンゾが診察室の扉を試すと施錠されていなかった入室するのとほぼ同時に背後で呼び鈴が鳴った女が応対する声が聞こえた相手の男は県警の何某と名乗り近くのビルから転落した遺体から免許証が見つかったと告げ確認のために同行を求めた女は動揺してえっえっでもお客さんが……と不明瞭な声で応じたゴンゾはうがい用の器具がついた電動椅子や治療器具のあいだを横切った古い建物で窓ははめ殺しではなかったゴンゾは窓を開けて身を乗り出し壁の張り出した部分に足をかけた飛び移れそうな窓は隣のビルになかったゴンゾは配管につかまって壁伝いに移動した肥満した腹が邪魔だったやれやれ明日は筋肉痛になりそうだと内心で独りごちた制服の警官が窓から身を乗り出して左右を窺いゴンゾを指さして叫んだ室内でもうひとりが無線で応援を呼んだゴンゾは会釈もせぬ代わりに気にも留めなかった椰子の樹を降りる猿のごとく雨樋をつたって商店街アーケードの足場へ降りた悠然と歩く殺し屋を数名の通行人が見上げたゴンゾは低いビルの屋根へ移って非常階段を降り裏通りへ抜けた騒ぎやサイレンを背にして何食わぬ顔で商店街を離れた


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
ぼっち広告