悪魔とドライヴ
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悪魔とドライヴ

県警本部長の娘、海堂ちありは援助交際の男に連れられて訪れた店で、カウンターに立つ国語教師、辻凰馬に激しく惹かれる。ちありの小説は波紋を呼び……。異色の恋愛小説!

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出版社:人格OverDrive

著者:杜 昌彦

(1975年6月18日 -)硬質な文体と独創的な作風で知られる。2013年日本電子出版協会主催のセミナーで「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らの指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。「人格OverDrive」主宰。

悪魔とドライヴ

得も言われぬ充実感

この物語には、現実にいたら懇意にするのが難しい人ばかり出て来る。だが非現実的でもありながら、キャラクターに妙なリアリティがあるのだ。やがて登場人物の中に、普段の自分の、そして周りの人の影を見る。(中略)進むに連れて物語は少しずつ事件性を帯びてくる。しかしそれはあくまで、人間性を様々な角度から抉り出すための舞台装置でしかないのだ。そしてそれだけで面白い小説が書ける小説家は決して多くはない。(略)いつか内容を忘れたとしても、自分の中の何かがゆっくりと引っ張られるようなあの感覚を、僕は忘れることはないだろう。

増田さん

悪魔とドライヴ
5.0
2018-07-01T22:42:25+00:00

増田さん

自分の中の何かがゆっくりと引っ張られるようなあの感覚を、僕は忘れることはないだろう。

よかった。

後半の疾走感に引っ張られ、結末まで目が離せなくて一気に読んだ。不気味で得体が知れない登場人物。歪んだ精神、狂気、どろどろした肉体関係も淡々と描かれていく。どこか諦念を含んだ冷めた視点は作品全体に通じているけれど、特に主人公とヒロインに沿うとき、人物に馴染むように色濃く感じられた。そこからクライマックスに向けて高まっていく危うい熱の対比がすばらしい。

Y.田中 崖さん

悪魔とドライヴ
4.0
2018-07-01T22:58:54+00:00

Y.田中 崖さん

クライマックスに向けて高まっていく危うい熱の対比がすばらしい。

アウトサイダーの叫び

序盤は無気力で退廃的な辻先生が、直情的な愛のカタチしか知らない海道ちありに出会い、互いに認め合いながら(このへんのこころの動きは一言では言い表せない)徐々に変わっていく。(中略)ほかにも一癖も二癖もある登場人物が出てきます。思春期の少年が堕ちていく過程にもこころをえぐられます。現実にはほとんどありえないストーリーラインに思えますが、ありえるかもと思わせる筆力は見事です。そして作品全体に漂うニヒルな雰囲気に圧倒されました。作品を通してアウトサイダーの叫びが聞こえてくるようです。

三世留男さん

悪魔とドライヴ
5.0
2018-07-01T23:06:53+00:00

三世留男さん

作品を通してアウトサイダーの叫びが聞こえてくるようです。

一文一文にかける熱量

一文一文にかける熱量は生半可なものではなく、読者にもそれ相応の覚悟が求められる。(中略)過剰に描かれこそすれ、そこには血の通った人間がいると読者に説得力を与えるに足るしっかりとした描写が成されている。すなわち、文章を書く際にはどうしたって滲み出てくるところの、作者の「私」が、この作品にあっては、丁寧に、殆ど暴力的なまでに「拭き取られている」のである。(略)恰もピンセットで摘まみとるが如く全く消し去ってしまったと云うのは、驚嘆すべき事実である。

柚葉(ゆうよう)さん

悪魔とドライヴ
5.0
2018-07-01T23:17:40+00:00

柚葉(ゆうよう)さん

隠せば隠すほどあらわになるのが、「私」なんぞ云うすさまじい「自意識」だ。それを恰もピンセットで摘まみとるが如く全く消し去ってしまったと云うのは、驚嘆すべき事実である。

思春期の残酷さ

バーテンを副業にしながら作家の真似事をして暮らす冴えない国語教師が、ある日エキセントリックな女子生徒に襲われて… 基本的にハードボイルド調。何故かモテる主人公が、彼に病的に執着する女性たちの思惑に暴力的に巻き込まれながら話が進んで行く。個人的には、主人公がどうというより、幼馴染であるヒロインを子どもの頃のように思いながら、次第に思春期の残酷さを覚えていく将大の投げやりさがよかったです。

tonaさん

悪魔とドライヴ
5.0
2018-07-01T23:22:17+00:00

tonaさん

幼馴染であるヒロインを子どもの頃のように思いながら、次第に思春期の残酷さを覚えていく将大の投げやりさがよかったです。

圧巻

小さな人間関係が、物語が進んでいくとともに肥大化し、奥行きを与えていく様は圧巻。彼らの未来はどうなるのだろうか。救われているようで救われていない囚われた物語。

萠木恵依@青蛙堂さん

悪魔とドライヴ
5.0
2018-07-01T23:24:15+00:00

萠木恵依@青蛙堂さん

救われているようで救われていない囚われた物語。
4.0
6
【試し読み】
 あと数日で十月にもなろうかというのに猛暑だった。教室の冷房は予算削減のために切られていた。生徒はだらしない格好で制汗スプレー臭い汗をかき、堂々と私語を交わしていた。
 辻凰馬は彼らが見えないかのように授業をしていた。縮れた髪は海藻のように額に張りつき、眼鏡は曇り、ワイシャツの腋には汗染みができていた。給料分の義務をこなせればそれでいいと思っていた。教壇に初めて立つ若造ではないのだ。出席番号の順に指名し、生徒に教科書を朗読させた。窓際の女子が飛ばされたのにだれも気づいた様子を見せない。いちいち嘲笑するのに飽きたのだ。風景の一部と化していた。
 たちの悪い生徒に数年に一度は出くわす。何喰わぬ顔で宴会芸の鬘を被って授業を妨げるような輩だ。海堂ちありはただ凝視するだけではあったが度を超していた。異様な印象を与えるのは髪のせいもあった。おそらく鏡も見ずに工作用の鋏で切ったのだろう。十代向けの雑誌モデルでもしていそうな容姿をみずから憎んで傷つけたかに見えた。彼女を知らなければ虐めや虐待に遇っていると勘違いしたところだ。しかし何よりも異形なのは痩せた体と不釣り合いな大きな目だった。熱病のように濡れてぎらぎらと輝いている。
 粘着される理由もそうなった経緯も見当がつかない。授業後の質問が多いとは思っていた。夏期休暇の講習にちありは欠かさず出席した。二年生の現代文に生徒の切迫感はない。欠伸をしたりネイルを眺めたりしていた生徒たちは講義が終わると教室をそそくさと去る。バイトや部活や遊びなどほかにもやることがあるのだ。凰馬が板書を消しているとちありは嬉々として近づいてきた。凰馬は職務につけ込まれているかに感じた。拒む言葉を持たなかった。
 ちありの質問は授業から逸脱しはじめた。読書について語り、凰馬の好みに探りを入れるようになった。あしらいが難しくなった。『夏の闇』の性描写をどう思うかと訊かれた。授業にも受験にも関係ないだろう、そういう感想は友だちと話しなさい。凰馬は振り払うように職員室へ向かった。追われることはなかった。以来ちありはただ無言で見つめてくるようになった。授業する教師を生徒が凝視することは罪ではない。咎めようがなかった。その状態は新学期がはじまってもつづいた。
 若い体臭と青臭い声。汗が目に染みた。凰馬は額を手の甲で拭い、眼鏡をかけ直した。あっ風、涼しいと声が上がった。カーテンを揺らす秋風は台風の兆しかもしれなかった。凰馬はつられて窓際へ目をやった。視線が合った。ちありの笑みが満面に広がった。赤い唇は切り裂かれた傷口のようだった。
 終業の鐘に救われた。起立、礼、着席。週番の号令がかかるときだけ生徒は静まった。再び喧噪が戻り、凰馬は板書を消して仕事道具をまとめた。戸口で数名の女子に取り囲まれた。
「先生、童貞ってほんと?」
 生徒たちは含み笑いを交わした。適性のない職業に就いたものだと凰馬は思った。青山なら気の利いた答えを返したろう。もとよりあの数学教師なら幼い憧れの対象にはなっても揶揄などされない。彼のようにはなれなかった。授業に関係ない、と呻くように呟いて生徒に笑われるのがせいぜいだった。
 ちありは陰りはじめた空を睨んでいた。

 文化横丁のバー「Ω」に凰馬はもともと客として訪れた。青山を別にすれば同僚との交流はない。仕事を終えると築三十年の独房めいたアパートへ直行する生活を何年もつづけていた。六畳の部屋には布団と文机、古いマックブック、それに祖父の形見である文鎮しかなかった。その日寄り道をした理由は自分でもわからない。じめじめした暗い路地に迷い込み、看板に吸い寄せられて、穴倉のような店内へ足を踏み入れた。その気まぐれが生活を変えようとは思いもしなかった。
 マディ・ウォーターズがかかっていた。たまたまその夜の店主の気分であり、日によって初期のビバップであったりロバート・ジョンソンであったりするのだが、煙草とウィスキーと埃の匂いが染みついた店内を見回した凰馬は、古めかしいオーディオで鳴るのが、今どき牛丼屋でさえ流れるハードバップではなく、泥臭い電化ブルースなのが気に入った。ケルアックやビル・エヴァンスのような太い黒縁眼鏡の老人が、数席しかないカウンター越しに、いらっしゃい先生、と声をかけてきた。糊のきいたシャツにヴェスト、蝶ネクタイ。白髪を椿油で撫でつけている。足もとがサンダル履きであるとはそのときの凰馬には思いもよらない。
 見知らぬ他人との会話は苦手だったが思わず声が出た。どうして先生と? 雰囲気だね、専攻は日本文学、まだ助教授ってとこだな。まさか、そんな柄じゃない、安月給の高校教師ですよ、担当は現代文。するとその鞄の中は生徒の答案かな。いや個人情報の持ち出しは禁じられてます、採点を終えて肩の荷が下りたところですよ、メーカーズマークをダブルでもらえますか、あと水を。
 酒を啜っていると目の前に青い缶が置かれた。白い鳩のロゴが描いてある。何です? と見上げると老店主は真顔で答えた、ピース。銘柄だとすぐには思い当たらず戸惑った。一本いかがかなと蓋を開けながら店主はいう。吸ったことないんです。一度も? そう一度も。健康が大切? 機会がなかったんです、親も吸ってなかったし。悪い友人もいなかった? まぁそうですね。人生の楽しみを逃しているね、試してみなさい。
 マッチで火をつけてくれた。最初は赤ん坊にキスするように、それから深く肺に煙を入れた。どうだね? 甘いですね。だろう? 煙が甘いとは知らなかった、ドライフルーツの香りがする、まるでタルト菓子みたいだ。指に煙草を挟んでバーボンを啜り、凰馬は笑みを浮かべた。悪くない。心から笑うのは教壇に立つようになってから久しぶりだ。近頃では渋面がずっと呪いの仮面のように貼りついていた。
 それが田崎老人との、そして「Ω」との出逢いだった。それからどういう経緯で店番を任されたのか憶えていない。気がつけば二階の四畳半に移り住み、昼は教壇に立ち、夜はたまに訪れる客のため、カウンターに立っていた。仕入れや経理は田崎老人の部下がやってくれた。凰馬はただ客と無駄話をしてたまに酒を出せばよかった。複雑なカクテルは要求されなかった。田崎老人が道楽でカウンターに立たせた案山子だとだれもが承知していた。
 週末には古書店で埃臭い文庫本を仕入れてきて、カウンターで読んだ。日本文学の古典もあればミステリもあった。読めれば何でもよかった。書くのは幼少期に文字を憶えてからの習慣だった。カウンターでピースを灰にしながら読み、あるいは書いて、客が訪れると文庫本やノートの蓋を閉じた。訊かれると「エロ本ですよ」「いけない検索をね」などと答えた。客は笑い、別の話をはじめて、それ以上は詮索されなかった。
 客たちは静かに飲んで去っていく。何も考えたくない夜は文鎮の手入れをした。朝まで何度も分解して組み立て直すうち、曲芸めいた早さで一連の作業をやれるようになった。眠れなくなって長い月日が過ぎていた。顔には皺が刻まれ、前髪はメッシュを入れたような白髪となった。
 同僚や生徒に嗤われ、上司や保護者に非難され、酔っぱらいの相手をしながら老いていく。それが自分の人生だと知っていた。

「書いてるか」お代わりの金を払いながら青山が尋ねた。
 強風が激しい雨を窓に叩きつけていた。店は閑散としていて、青山のほかに客はひとりだけだった。部活動を中止して生徒を下校させた直後から風雨は激しくなっていた。教職員が引き上げる頃にはJRは運行を休止しており、バスのダイヤも乱れ、まともに動く交通機関は地下鉄だけとなっていた。雨音は低い音量の『ビッチェズ・ブリュー』をかき消すほどだった。
 音楽は青山のリクエストだった。彼は煙草を吸わなかった。妻の連絡を待ちながら携帯で劇場占拠事件のニュースを見ていた。凰馬は金をレジに入れ、文庫本を片手にピースを灰にしながら「ぼちぼち」と答えた。過去におけるどの夜でも繰り返されたやりとりだった。
「どこまで進んだ」
「探偵が依頼人の父親の手下に暴行された」
「今度は何を捜してるんだ」
「まだわからない。敵は知ってるようだ」
「依頼人の父親か」
「ほかにもいるらしい」
「先に考えときゃ早いだろうに」
「だれに見せるものでもない」
「僕が読むよ」
「いつか、そのうちな」
 青山は細いネクタイを緩め襟元のボタンを外し、カウンターに頬杖をついてグラスを傾けていた。そうしているだけで絵になる。安月給の教師というより俳優か五十年代ハードバップの音楽家のように見えた。
 青山がどうして自分とつるんでいるのか凰馬には不思議だった。正反対だからこそうまが合うのかもしれない。強いて共通点を挙げれば、広く浅い交際より特定の人間との関わりを求めるところか。青山には高校時代から付き合っていた妻のほかに女性は一度もおらず、関心もないようだった。
「劇場テロはどうなった」凰馬が尋ねた。文庫本では無能な探偵が四人目の屍体に出くわしていた。
「犯人は一名を除いて殺害された。男性二三名、女性十六名。全員が都内の小劇団に所属していた。逃げたのはそこの座長だそうだ。観客を装って客席に着き、上演が中盤まで進んだ時点で立ち上がり、銃を乱射しはじめた。上演していた側の関係者は犯人をひとりも知らなかった。やっかみから一方的に逆恨みしたのではないかといわれている。人質の死傷者数はわからない。突入時に催涙ガスが使われたようだ」
「それで死んだやつもいるんじゃないか」
「誤射もあったろうしな。座長のアパートで工業用立体プリンタが押収された。犯行に使われた銃はそれで製造されたらしい。ステンレス粉末で整形する方式だった。また規制が論じられてる」
「銃弾はどうやって手に入れたんだろう」
「アクセサリーとして個人輸入されたらしい。警視庁はプリンタやステンレス粉末の入手経路を捜査している。押収された粉末の残量から、銃は犯行に使われた以外にもあるはずだと推測されている」
「台風は」
「今夜が山だ。テレビくらい買えよ」
 青山はΩに寄り道して妻の絵梨子を待ちながら一杯やるのが日課になっていた。合流したあとはスーパーで買い物をしてマンションに帰る。絵梨子のほうが先になることもあり、週末には夫婦で長居する夜もあった。その時間を凰馬は楽しんだ。人付き合いは苦手だがこの夫婦だけは別だった。受け入れるとともに適度に放っておいてくれ、気を遣わずにいられた。
 絵梨子は背の高い美人で、音楽と文学と車の運転を好み、凰馬を対等の人間として扱った。そのような女に出逢ったことはなかった。容姿もまた女に値踏みされる男の社会的能力のひとつだと凰馬は知っていた。学生時代は同級生や教師、就職してからは同僚や生徒の態度でそのことを学んだ。母親からしてそうだった。
 その不信感と警戒心を緩めさせる力が絵梨子にはあった。Ωで顔を合わすたびに凰馬は彼女を、その夫と同じくらい好きになり、信頼するようになった。まともな家庭を知らずに育った彼は、この夫婦を結婚の理想像として捉えた。自分にはかなえられない幸せをふたりが楽しんでいるのが嬉しかった。彼らの小さな家庭における外れ者の叔父のような役割を楽しんでいた。
「もう。傘が役に立たないわっ」
 風雨とともに絵梨子が現れた。吹き込んだ雨で床が濡れた。長い髪もコートもぐっしょり濡れていた。タオルを手にカウンターを出ようとする凰馬を、彼女は身ぶりで制した。
「近くに車とめてあるから。駐禁取られないうちに早く。また今度ゆっくりね、辻君」
 慌ただしく店を出て行く妻を追いかけながら、青山が肩をすくめて苦笑いしてみせた。凰馬も苦笑いで見送った。車内から携帯で夫を呼んでもよかろうに、わざわざ店に顔を出すところが彼女らしい。
 振り返ると店内に客はいなくなっていた。さっきまで隅のテーブル席にコートを着た髪の長い女がいたのだ。じっとうつむいて口をきかず、酒にも手をつけていないようだった。もっとも変わり者の客はΩでは珍しくなかった。帰るところは見なかった。思い返せば何か思い詰めて慄えているようにも見えた。青白い顔で唇だけが血のように紅かった。
 あれが幽霊だったとして何の問題がある? 酒と引き換えに金はもらっていた。カウンターに立つようになったばかりの頃、何度か金を取るのを忘れてから前払い制にしていたのだ。今夜はもう客は来ないだろう。施錠して閉店の札を下げ、グラスを洗い、照明と音楽を消して二階へ上がった。
 電灯へ手を伸ばしたとき、何かが猛烈な勢いでぶつかってきた。
 何が起きたのかわからなかった。万年床へ押し倒され、脳天に衝撃を感じた。古書特有の埃が舞う。積まれた本の一冊で殴られたのだ。闇に目が慣れてきた。相手は凰馬に馬乗りになり、コンクリートブロックのような本を両手でつかんで、彼の顔に何度も力任せに打ちつけてきた。眼鏡が飛び、頁で頬が切れた。
 抵抗しようにも驚きと恐怖で力が入らない。鍵がかかる文机の抽斗にしまった文鎮のことは考えなかった。それはそのように使うものではなかった。充電中の携帯に届く前に手を押さえつけられた。本がなだれを起こした。相手はその山から手当り次第に本をひっつかみ、投げつけてきた。ほとんどが分厚い全集本だ。シャツが引き裂かれボタンが飛んだ。爪で裂かれた胸元に熱い痛みが走った。
 揉み合ううちにカーテンから漏れる蒼いネオンで相手が見えた。長い髪の客だった。顔は見えない。懸命にその髪をつかんだ。腐った果物の皮が剝けるように鬘が手に残った。息を呑んで相手の顔を見つめた。ニタリ、と海堂ちありは笑った。
 思わず抵抗が緩んだその隙を、ちありは逃さなかった。白い指は蛇のように素早かった。ベルトを外され、また激しく殴られた。そのあいだずっと少女は教師の目を覗き込んでニタニタ笑いつづけた。コートの下の膚は屍体のように冷たいのに、吐きかけられる息だけは炎のように熱かった。風が窓枠を揺らした。散弾のように窓に打ちつける雨がたがいの息をかき消した。


【著者からひと言】
映画『恋に至る病』『ガラスの墓標』ときのこ帝国の名盤『猫とアレルギー』に着想を得て2015年から2016年にかけて雑誌やサイトに書いた連作をまとめた恋愛小説です。藤井太洋さんや十市社さんといった作家さんを中心とする20名ほどの方々の助言をいただいて改稿し、刊行しました。その後、紆余曲折あってさらに加筆し、新たな筆名で出し直したのが本書です。Kindleストアで無料でお求めいただけます。

杜 昌彦

(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。硬質な文体と独創的な物語で知られる。作風はアヴァン・ポップ、スリップストリーム、スペキュレイティブ・フィクションに分類される。2010年から別名義で活動。2013年日本電子出版協会(JEPA )主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。