長編では全体を通しての緩急やバランスが要求され、 そうそうすごい場面ばかり連続させるわけにもいかない。 野心や冒険よりもしたたかで力強い技量で手堅く見せた巻だった。 この物語は芸とは何か、 それを教えるとはどういうことか、 についての考察だ。 ジェンダーについての物語でもある。 才能、 努力、 熱情といった可視化されやすい事柄について描くばかりではなく、 感性や感覚といった領域にも斬り込もうとしている。 今回は巧みなストーリーテリングは相変わらずだけれどもかたちのないものを可視化する大胆な鋭さはなかった。 確かに 「開く」 という表現で感覚を語ろうとしてはいる。 この台詞自体、 凡庸な感性からは出てこない鋭いものだ。 けれどもあえてそこに焦点を当てていない。 主人公が教える側にじつはまわっているのにそこにも焦点は合わせられていない。
少女漫画の野心作は物語を恋愛に寄せると失速する、 という自分のなかでのジンクスがある。 少女漫画の作家たちはどういう意図で男女関係を描くのだろう。 恋愛にせよ性的な何かにせよ人間の社会的価値を値付けする行為であって、 ある種の、 そしてじつは多くの人間はあらかじめそこから疎外されている。 疎外された周縁から見つめるのが芸術であるのと同時に、 恋愛や性的な何かを描かない芸術もまたありえない。 この作品ではジェンダーのあいまいさについても大胆に踏み込んでいて、 その意欲と野心に胸を打たれ揺すぶられてきた。 ところが最新刊ではあっさり 「わかりやすい」 ジェンダーだけが描かれている。 落とすために持ち上げる回だからやむを得ないとはいえ、 なんだかんだいって恋愛を描くにはそういうわかりやすい 「女性らしさ」 に行っちゃうのかなという寂しさは感じた。
しかし注意ぶかく読み返してみると、 ありがちなジェンダー観へ寄せたのは計算高く意図された見せ方であることがわかった。 バレエの身体性を強調するために対比として平均的な成長や肉体を強調したのだ。 もとよりこの作家は対比で語る作風である。 一般的には遅い初潮でもバレエには早すぎると女たちが会話する。 あたりまえの身体性が芸には制約になる。 重力と抗う芸術であるがゆえの葛藤を、 あたりまえの人生を生きる外側のひとたち (これは逆の視点に立っているからで、 実際には主人公たちの側が周縁なのだけれども) は悠然と無視している。 芸にかかわりがない人生であるがゆえの圧倒的な優位性と、 その 「正しさ」 に社会的に打ちのめされる芸の側を描いている。 そして主人公はその少女の内部の、 打ちのめす力に惹かれつつも打ちのめされる側に価値を見ようとする。 その残酷さをこの最新刊では描いていた。 本来あるべき身体性を否定しないことには本来あるべき自分でいられない。 否定することでしか肯定されないジェンダーという矛盾。 そう考えるとやはりこの物語は一貫して、 疎外された周縁の地にいるひとたちを描いているといえるのかもしれない。