戸田 鳥

オードトワレ

連載第12回: Crescent Moon

戸田 鳥書いた人: 戸田 鳥, 投稿日時: 2019.05.21

 従業員割引を利用して、冬花はプラチナのネックレスを買った。気分転換が目的でもあったから思い切って値の張るものを選んだ。華奢な鎖に通したバロックパールは、指輪であったときよりも個性が際立つようだ。ジュエリーは自分を演出する道具だと言った乾の言葉を思い出しながら、咲子の形見を首にかけた。
 信号待ちをしていると、急ぎ足で青信号を渡ってきた誰かの肩がぶつかった。
「ごめんなさい。あら、あなた」
 越田夫人だった。白のパンツスーツに、アクセサリーの類いはシンプルな指輪ひとつ。店で見る姿とはまるで違っていた。
「その節はご迷惑をかけてほんとうにごめんなさいね。主人が乱暴な振る舞いをしたそうで。あのひと、私のことだと頭に血が上っちゃうのよ」
 予想外に明るい夫人の謝罪に、冬花はいいえ、としか言いようがなかった。
「お元気ですか」
「おかげさまで、主人も元気よ。ご心配かけたけどどうにかやってるわ」
 修羅場をくぐったばかりにはまるで見えない。むしろ以前よりも生気が溢れていた。不思議なひとだ。
 信号が変わった。冬花は軽く頭を下げた。
「また店にもお越しください」
 ついいつもの挨拶をして、失敗したと悟った。千葉のいる店に戻ってくるはずがないではないか。
「そうね、いつかほとぼりが冷めたらね」
 夫人は悪びれずに笑って、冬花の胸を指さした。
「あなたのそれ、すごく似合っててよ」
 夫人のあでやかな笑みが胸にこたえて、冬花はもう一度会釈すると急いで店に向かった。

 帰宅した冬花は、手を洗いながら洗面台の鏡に映る自分を眺めた。大人っぽすぎるかと思われたバロックパールは意外に馴染んでいるらしい。蛇口を閉めると、真珠が揺れて鈍い光を放った。
 実際のところ、越田夫人の色恋沙汰にさほどショックは受けなかった。叔母の秘密に驚きはしても、幻滅するほど子供ではないつもりだった。それなのに何を期待していたのだろう。咲ちゃんに。香水に。彼女が香水を持っていたのも、冬花が考えたような理由とは限らない。飯塚との記憶は叔母の中で色あせていたかもしれないのだ。あれは冬花が思い描いた咲子の物語だった。母には母の、飯塚には飯塚の咲子が各々の記憶の中にある。冬花にとっては、ともに過ごした時間が叔母のすべてだ。
 冬花はゴミ箱から香水瓶を拾い上げた。
 ごめんね、と詫びたい相手はもういない。

『香水 捨て方』で検索すると答えは得られたが、思いのほか手間がかかりそうだった。しかし先延ばしにはしたくなかった。深夜営業のホームセンターでニッパーとドライバーを買い求め、力ずくでスプレーの金具を外した。ジッパー袋に古着のTシャツを詰めて金色の液体を吸わせると、叔母の過去が揮発して部屋に満ちていく。冬花はその濃さに思わずむせた。換気するのを忘れていたのだった。窓を開け換気扇を回して、気休めにマスクもした。ジッパー袋は封をして、さらにビニール袋を二重にかぶせ固く結んだ。だが捨てるまでに何滴かこぼしてしまったのか、部屋はまだ濃い香気が充満していた。冬花はレースのカーテンも開けて、窓を全開にした。梅雨明け間近の湿気た空気は、あまりいい風を運んでくれそうにない。空になった瓶を洗い終えても匂いは部屋にとどまっていたので、冬花はベランダに避難した。狭いベランダの隅に座り込んで夜空を見上げると、白い三日月がこちらを覗いている。ベランダの床はひんやりとして気持ちがよかった。
 携帯の振動音が静けさを破った。ポケットから出して見ると赤木からの業務連絡だった。冬花は簡単な返信をすると携帯をポケットに戻した。そしてすぐまた取り出すとメッセージアプリを開いた。頭をひねりながら、幾度も入力しては消しを繰り返す。けれどうまい言葉は見つからず、指は画面の上で泳ぐばかりだった。考えあぐねた冬花は、ふと浮かんだ文章を打ち込んだ。

『いま、飯塚さんの匂いでいっぱいです』

 送信ボタンを押すと、疲れを感じて瞼を閉じた。そんな冬花を揺り起こすように着信音が夜気を震わせた。
 
(了)


学生時代より児童文学を学ぶ。長い休みをはさみつつ創作を続け、2014年より、Webサイト「note」にて作品を公開。代表作に『きゅーのつれづれ』『手品師の弟子』『にんぎょばなし』など。2019年現在『鳥の国のはなし』を連載中。愛読書はダイアン・セッターフィールド『13番目の物語』、谷崎潤一郎『細雪』。好きな作家は小林信彦、庄野英二、イタロ・カルヴィーノ。
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