うへ

大人って歯も上手く磨けない

連載第39回: close one’s ears

うへ書いた人: うへ, 投稿日時: 2020.10.10

 服装の組み合わせを色々と考えるために洗面所にある鏡の前を行き来する。すると母はこちらへ注意を向け始める。「どこに行くんやろ」「往復を繰り返してるということは」「まさか女」「そういえば尿意を催していた」そうやって洗面所の真後ろにあるトイレへ入る。いつも駆け込むようにしてトイレに入ったときほど水面を叩く音に勢いはない。それはなぜなら探りを入れるために催した尿意なのだから。
 私は2パターンほどコーデを試したあとで、早々に諦めた。考えた末、私はTシャツとジーンズにパーカーを羽織っただけの手抜きスタイルで行くことに決めた。これは母のさまざまに思い巡らせた思考の裏をかく、欺くための復讐のつもりだった。だがそれはこうも考えられまいか? 本当は母を欺いたという考えに着地した自分自身を欺くために用いた考え方であって、その真意は、母の心配に応えた結果、母の支配に逆らえなかったという結果が招いたものではなかったか。お母さん、安心してください。私は今日、女に会うわけではありませんよと。姉がコーデを考えているときの母は露骨だ。「あんた、そんな何回見ても変わらんよ」「なんか全部同じ服に見えるね」「誰も見とらんよ」すべて嘲笑を含んだ声で、若さに対するみっともない嫉妬心を隠しもせずにのたまう。姉はそうした母の言葉に怒りを感じながらも真に受け、自信を失う。挙句、「やめた」と姉が言うが早いか、母は「あんだけ悩んでおいてから」とまた同じ調子で姉を嗤う。手元に置いておきたい、だから「あなたは無力なのよ」という刷り込みをしてくる。母は自分が一人になることが怖いのだ。死ぬまで、いや、死んでからも宗教の教義にある位牌になってからも奉仕してもらわねばならないと、躍起になっている。すべては自分のため。なにが利他愛の精神か。

 私が出掛けようとすると、その気配を察知して玄関まで見送りという名の偵察に駆けつける。ほとんど返事という返事を返さないというのに、よくもまあ懲りずに続けるものだと感心する。「人ごみ行くとね?」「あんた、一回出ると長いよね」「気をつけてよね」
 私がコロナに罹患して、それを母にうつして死亡させる確率と、母が買い物に出かけて交通事故に合う確率とではどちらが高いのだろうか。私がコロナに罹患して、それを母にうつして死亡させる確率と、絶えず降り注ぐ放射能汚染された空気を吸い続け、汚染された食物を食べ続け外部被曝と内部被曝を繰り返している日常によって死に至る確率とどちらが高いのだろうか。呆けた時間を生きるために死を案じるその時間と、無意味なTVショーを指を咥えて眺めている時間と、どちらがより無駄な時間だろうか。こうして私の首にはまた強固な鎖が巻き付けられた。「いってらっしゃい」私は完全にシカトして扉を閉め鍵を掛ける。

 帰宅早々、私は一度鍵を開けて玄関に入ったところで、濡れている折り畳み傘をリュックのサイドポケットに入れたままにしていることに気付いた。外に出て水滴を払う。そうして再び玄関へ戻ると、私が予想した通り、様子を窺うためにクイックルワイパーを片手に掃除をしているフリをした母が、偶然を装って立っていた。「なんしようとね?」私は母に信用されていない。それは小学生のときに父親のクローゼットにある小銭をくすねていたことがバレた過去があるからだろうか。それとも母の知らぬところで、母の知らぬ女と寝ていたことを知ったときに受けた何年も前のショックをいまもなお引き摺ってのことだろうか。私はお前のものではない。ペットでもない。私は心の中で暴れるこの妄想癖に付き合いきれない。
 「傘たい」吐き捨てるように言って私はトイレに向かう。男であることを知らしめるため、小便を水面に打ち付けて音が激しく鳴るように力強く放尿する。それでも便器の外には飛び散らないよう配慮する。私には母の調教が染みついている。トイレを出て、洗面所へ向かい手を洗う。すかさず母はドアノブを当てつけのようにアルコールで消毒する。外側、そして内側。その後手を洗うために洗面所に来ることをわかっていながら、私は洗面所の電気を消す。いつも、配慮すればわかることやろうもん、と口酸っぱく言われてきた。だから私はあえて電気を消した。開け放たれたリビングからは、私が地獄耳であることを知っているはずの女二人による私への不機嫌さに対する難詰が行われている。


趣味でしかものを書いたことのない、名無しの素人エッセイスト(自称)。 この度、どういうわけか当サイト「人格OverDrive」の主宰者である杜 昌彦氏に「掲載してみませんか」とお誘いいただき、こちらに寄稿することに。 29年間、苦しそうなこと、辛そうなことから逃亡している人生。フリーター。 寄稿するジャンルは妄想エッセイ。虚実交えた物語を書いていきたいと思います。
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