杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第3回: Bringing It All Back Home

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.02.21

 失恋で泣くのは毎度のことだが財布が空になって泣いたのは二十八歳にして初めてだった。駅前のコンビニで泣きながら缶酎ハイを大量に買い込んだ。コールセンターは繁忙期で早朝から深夜まで働きづめで、帰宅したらベッドに倒れ込む日々が二ヶ月も続き、彼氏、いまとなっては元彼だが、に逢えない休日はほとんど寝て過ごしたのでアルコールはひさしぶりだった。
 寝て過ごす休日の不自然になぜ気づかなかったろう。雑な弁解を鷹揚に許したのは大人の余裕を示したかったからだ。つまらない見栄など張らねばよかった。しかし偏執的な嫉妬で追い詰めたところで結局は逃げられたろう。ATMで預金残高に泣き、下ろしたばかりの金が減ってまた泣いた。ベトナム人らしき女性店員を怖がらせたのがわかった。品出しをしていた男性店員に店を出るときじろじろと見られた。
 どうして自分ばかりがこんな目に遭うのか。世間には幸福な人間がいくらでもいるではないか。幸と不幸を全人類で等分にできぬものか。幸福に属する事柄は愛も金もみなそれを握りしめて生まれた人間のもとへ寄り集まる性質があるようだ。そいつが死んでも手放さないからあたしの取り分は巡ってこない。あのキャバ嬢SVがどれだけ幸福か知らないが自分よりはましな境遇に思われた。ああいう女は絶対に自分を疑わない。歳下男に騙されて衆人環視のもとで侮辱され有金のすべてを巻き上げられたりもしない。
 しかしあたしは諦めない、転んでもただでは起きまいと明日香は誓った。男子にいじめられ女子に仲間はずれにされ教師に目をつけられ変態に物陰で変なものを見せられ父親が出て行って浮世離れした母親の世話を強いられた幼き日から、それでも常に前向きであろうと努めてきた。どんなに打ちのめされても必ず何かをつかんで立ち上がるのだ。これまでの経験でつかんだものは金や愛よりも犬の糞が多かったが、いつかは奇跡が起きて糞が金に、悪臭が若手IT実業家を惹きつける色香に変わるかもしれない。
 さしあたりいまの明日香には酒を詰め込んだレジ袋と、それに何よりアパートの部屋があった。カーテンもラグもシーツもかわいい柄の北欧製で、家具は安くても実用的かつ凝った意匠のものを選んである。書棚には海外の絵本やパウル・クレーの画集、植田正治の写真集、映画のDVD、デザイン関連の実用書が並んでいる。ネット通販会社の初任給で買ったマックブックは夢を諦めた明日香にはいまでも充分な性能だ。食器だって数は少ないが無理をしてちょっといいものを二セットずつ揃えた。整頓の達人に説かれるまでもなく心ときめかない品物はひとつだってない。
 確かに床は少し傾いているし、たまに水道管がおかしな振動音を立てるし、外観は友人に心配されるほど老朽化しているが住むには差し支えない。むしろ古い部屋だからこそ手入れも愉しみになり得た。この二ヶ月ほどは余裕がなく手を抜いていたので繁忙期を過ぎたら大掃除をするつもりでいた。普段は板張りの床や窓ガラスは磨き上げられ、トイレや浴室も清潔で、小さな台所の流しには顔が映るし換気扇もぴかぴかだった。仕事や恋愛でどんなに辛い出来事があっても、十年も暮らしたあの部屋に帰れば鎧を解き放ち、ひと息ついて、嘘偽りない本来の自分に戻れた。
 生まれ育った家はさながらゴミ溜めのようだった。幸い近所で噂になったりワイドショーで取り上げられたりするような、汚物で足の踏み場もないゴミ屋敷でこそなかったものの、新しもの好きで秩序の概念が著しく欠けた母親は、次から次へとわけのわからぬ代物を買い込んできてはそこらじゅうに放置した。
 ソファーの下や便器の上でしばしば見つかったモデルガンやら手錠やらは、警察ものの仕事をしていた時期だったので参考資料にしたのだろうと見当はついた。しかし明日香の身長より大きなアフリカの悪魔像やら、ネックが三本とも折れた変形ギターやら、すべての抽斗が施錠され鍵が失われたヴィクトリア朝時代の箪笥やらは、いったい何が目的で購入したのか、何のつもりでさして広くもない一般家庭の廊下に陳列したのか理解に苦しんだ。
 義務教育の家庭科は漫画家はおろか母ひとり子ひとりの家庭すら想定していないようだった。通常の掃除は教えてくれてもがらくたの扱いは教えてくれなかった。おかげで短大進学を口実にあの家を出るまで、廊下を通るたびに足の小指をくじいたものだ。日々増殖する品物が邪魔で掃除のしようもなかった。高校時代には努力をすでに放棄していた。憧れの先輩をただ遠くから見つめるしかなかったのも、本名のこともあるが、万が一にも親しくなってそんな家庭を知られたらと思うと怖かったからだ。
 親は変えられないが自分は変われる。都会で心機一転やり直すのだとあの冬の日、親友と語り合いながら決意したものだ。家を出られるならどんな学校でもよかった。学校にせよ就職先にせよいまになってみればもう少し選びようがあったろうが、家賃の安さだけで決めたにしては部屋選びにだけは成功した。この十年の苦労も自室へ帰れるからこそ乗り越えられた。幾人かの男が訪れては去っていったあの部屋。これからもあそこで生活するのだ。
 あのアパートがあるかぎりあたしはまだOKだと明日香は思った。あしたは雇用保険の申請に行って、それから大掃除をして気持を入れ替えよう。
 夕暮れで薄暗くなったというのに工事の音が聞こえた。アパートの近所だ。重機の音やコンクリートが崩れる音がする。建物を取り壊しているらしい。いやだなぁ静かに飲みたいのにと考え、アテを買い忘れたのに気づいた。冷蔵庫の中を思い描く。たいしたものは残っていない。いっそピザでも取ろうか。財布や口座の残額を思い出し、家賃や公共料金や携帯代へと及びそうになる思考を強引に戻した。すると今度は宅配員の性別が不安になり、気にするのは自分だけだろうか、ひとり暮らしとはいえ世間的にはもう若くないんだしと悩み、ええい面倒くさい、構いやしないと考えたところで仁王立ちする影に気づいた。
 街灯と工事の照明を背にして行く手に立ち塞がっている。あたかも明日香を待ち構えているかのようだ。
 住宅街とはいえ人通りはない。助けを求めて叫んでも工事の音で掻き消される。血の気が引いて全身の毛が逆立った。いま引き返しては不自然だ。思い過ごしなら失礼だし変質者なら襲われる。缶酎ハイを詰め込んだレジ袋を握り締めた。いざとなれば武器のように振りまわし、相手を怯ませた隙に身を翻して逃げようと決めた。警戒心を悟られまいと歩調を変えずに近づいた。
 工事の音はいまや耳を聾せんばかりでアパートが普段より遠く感じられた。もう着いてもいいはずなのにまだ見えない。時空が歪んでいるかのようだ。
 ああ来た来た、待ってたのよと人影がいうのが聞こえた。騒音の中で声を識別できたのは聴き慣れていたからで、暗がりで姿を認識できなかったのはこの半年ほど忙しくてずっと顔を合わせていなかったからだ。大家のおばさんだった。気づいてみればどうしてわからなかったのか不思議だった。明日香は安堵のあまり力が抜けてその場にへたり込んだ。
 サンダルをつっかけた大家の靴下が視界に入った。その向こうに見慣れた冷蔵庫が見えた。
 ええっと叫んで目を剝いて立ち上がった。冷蔵庫だけではない。洗濯機もテレビもガラステーブルも「人をダメにするクッション」も脚つきマットレスも電子レンジも、書棚も本やDVDも残らずそこにあった。かわいい柄の北欧製カーテンやラグやシーツまでそれらの山に丸めて載せてあった。なぜか便器まで陳列されていた。
 えっ? えっ?
 明日香は鞄とレジ袋を取り落とした。家財道具の向こうに取り壊される建物が見えたからだ。缶酎ハイはモロトフのパン籠のように袋を突き破って四散し、てんでに側溝へ転がっていった。見慣れた壁がシャベルカーに崩された。明日香の部屋のあたりだ。
 それは紛れもなくいま帰ろうとしていたアパートだった。鍵を開けて電気をつけて郵便受けのダイレクトメールや投げ込みチラシを見もせずに丸めてゴミ箱に突っ込んでテレビをつけて以前の勤め先で買った「人をダメにするクッション」に身を沈めて携帯をいじりながら缶酎ハイのプルトップを起こす場面まで頭のなかで予行演習していたというのに。その場所がもうない。
 ええええええぇーっ。
「何年も前からしてたでしょ建替の話。半年前に郵便受けに入れた通告書ちゃんと読んだ? 立退きの期日も書いておいたじゃない」大家は腰に両手を当てて呆れ顔で溜息をついた。「この二ヶ月ずっと連絡しようとしてたのよ。郵便受けに手紙も入れたし何度も電話したのに。きょうもギリギリまで待ったけどいつまでも連絡がつかないし帰ってこないから始めてもらったのよ。悪いけど部屋の荷物は勝手に運びださせてもらったわ。おかげでこんな時間。ご近所迷惑だしあと三十分で工事の人帰っちゃうし……」


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的な作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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