崖っぷちマロの冒険

第2話: 血の収穫

Avatar photo書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2022.08.12

死んだ? 何が」
 職員室で教務主任の山本をつかまえた。席が戸口に近かったからだ。耳元に小声で打ち明けた。うまいやり方とはいえなかった。彼は事務作業を中断し、振り向いた。
「体育館の裏? 寺井玲子がどうしたって?」
 隣のクラスに中学受験を目指す女子がいた。そいつが算数の問題集を手に、担任に質問しているのは気づかなかった。間が悪かった。振り向いた眼は輝いていた。
 駄目押しに山本が叫んだ。「刺されて死んでるう?」
 ワーナー漫画のロードランナーさながらにスカートがひるがえった。担任が呼び止めようとしたときにはすでに、廊下で待っていた仲間たちが噂を共有していた。狂喜の叫びが聞こえた。
 教師らはそれほど迅速ではなかった。初めは誰もまともに取り合わなかった。腹を立ててたしなめる者もいた。僕はうまくしゃべれなかった。それがかえって異様な空気を伝えた。底意地の悪い冗談なら、もっと手際がいいものだ。僕は説明をあきらめ、戸口を飛び出した。大半の先生がついてきた。廊下を走っても叱られなかった。誰もが走っていた。
 途中で長崎さんが加わった。生徒に人気の用務員だ。植物や昆虫に詳しかった。生活科や図工のため、いろいろな枝や葉を集めてくれた。何事かと彼は訪ね、誰かが答えると顔色を変えた。
 立ったまま気絶する晴彦のむこうを見て、誰もが絶句し、脱力したように立ち尽くした。今にも吐きそうに顔を歪める者や、泣きだしそうな者もいた。それが正常な反応だとするなら、担任の態度にはどこか違うものが感じられた。そのことに気づいたのはずっと後のことだ。
「こっちこっち。早く」
「ちょ、ちょっとあなたたち」
 さっきの女子たちだ。保健の小岩井先生を連れていた。白衣の袖や裾をひっぱられていた。その困惑顔が凍りついた。一団は立ち止まった。女子たちは口を押さえ、二段階の悲鳴をあげた。まずは小便を垂れ流す男子に。ついで錯乱気味の絶叫。
 それで呪縛を解かれたように、先生方が動いた。子供らの視線を体で遮った。「君たちは帰りなさい。大丈夫だから。ほらほら」
 女子たちの肩を支え、向きを変えて追い出した。何がどう大丈夫なのか、説得力はなかった。女子たちは錘を机の縁に垂らすと歩く玩具のように、茫然と離れていった。瀬川先生があとを追った。家まで付き添うつもりだろう。
「あたしの手には負えないわね……」
 救急箱を手に、小岩井先生が呟いた。ブラックジャックだって無理だよ、先生。死んでんだもの。彼女は上井戸に尋ねた。
「救急車は?」
「警察を呼びました。検視医も来るでしょう」
 いい終えないうちにサイレンが近づいた。

「何々どしたの」
「誰か死んだんだって」
「嘘。先生、生徒?」
「犬でしょ」
「死体どこ」
「跡形もないって」
 まだ生徒が残っていたとは驚きだ。ざっと百名はいた。噂を聞きつけて戻ってきたのか。鞄を背負ってる者もいた。声は甲高く騒々しかった。
 遺体袋は半時間前、担架で運び去られた。救急車はサイレンを鳴らさなかった。晴彦は誰かに付き添われて退場していた。そのころにはもう野次馬で溢れかえっていた。
 パキ教頭が大汗かいて、警官に何やら説明していた。パキケファロサウルスは頭突きが得意技の小型恐竜。いうまでもなく髪型が綽名の由来だ。ビア樽体型の校長が、隣で心許なげに立ち尽くしていた。
 立ち入り禁止の黄色いテープ。その向こうでは鑑識員がひしめいていた。白い粉をはたき、フラッシュを焚く。証拠品をジップロックにしまい、文字の札を立てる。チョークの輪郭を検分する。コートの刑事が携帯で話していた。頭に少し寝癖があった。
「まだ連絡つかないの」
 小岩井先生は不安げだった。袖を折り返した大きな白衣。ポケットに左手を突っ込み、右手には救急箱を下げたまま。今は健康サンダルの内履きではなく、運動靴だった。化粧気がないせいで「人のいいおばちゃん」風に見えた。
「自宅は誰も出ない。お手伝いさんがいるはずなんだが」
 ブラジルが無表情に答えた。体育館の高窓の下に立っていた。
「父親のほうも埒があかない。会議中だとか担当者がいないとか。今、母親にかけてる——あ私、青葉小学校五年二組担任の上井戸といいますが」
 彼は送話口を手で覆った。淡々と説明するその背中を、保健教諭はじっと見つめた。
 間近で見る事件現場に、子供らは大興奮だった。テープ前に立つ警官をものともしない。伸びをしたり、股下から覗き込もうとしたり。押し合いへし合いしていた。
「お巡りさん、こっち向いてぇ」
「血だー。サスペンス劇場みたい」
「撃たないかな。バンバン」
 教師らは滑稽なまでに必死だった。大声をはりあげ、猫なで声でなだめすかした。
「いいから。もう帰りなさい。大丈夫だから」
「お母さん心配するぞ。帰れっておまえら」
「はいはい。はいはい」
 私服刑事が上井戸に声をかけた。担任は懐に携帯をしまい、振り向いた。
「縁部。お巡りさんが話を訊きたいそうだ」

「きゃー。きやあーっ」
「おいマロ。マロって」
 僕の緊張を慮ってか。聴取場所は教室に変えられた。被害者のクラスを検分するためでもあったろう。寝癖の私服刑事が引き戸を閉ざした。黄色い絶叫や、吠えるような連呼。押し寄せる生徒もろとも、それらの騒音が締め出された。施錠の音が響いた。前後の戸口にひとりずつ警官が立った。
 真ん中の席に、大柄な男が跨っていた。古ぼけたコートと地味なスーツ。年季の入った革靴。黒板に背を向け、こっちを向いていた。ラグビー選手型。がっしりして肩幅が広かった。机や椅子は彼には小さすぎた。三輪車に乗る猛獣みたいだ。でもサーカスの愛嬌ある人気者とは、ほど遠かった。
 この人も戸口で頭を下げるんだろうな、と思った。その通りだとあとでわかった。
 鞄を下ろすようブラジルにいわれた。大男と向かい合う席へ座らされた。それはたまたま中山仁美の席だった。彼女は去年のクラスでも同じ席だった。そこで晴彦がしていたことを、脈絡もなく想い出した。
 廊下の騒ぎは収まらなかった。口笛を吹く者。「名探偵!」と茶化す叫び。「マロ君頑張って!」との黄色い声援。教師たちの声はかき消されていた。寝癖刑事が後ろ手を組み、窓から校庭を見下ろした。別の警官が、廊下側をうんざりしたように一瞥した。
 ブラジルが錠を外し、戸を開けた。
「うるさい。静かにしろ」
 一瞬で墓場みたいに静まり返った。
「君たちは帰りなさい。明日の朝会で話す」
 みんなが散りはじめるのが、僕からも見えた。上井戸は戸を閉めて引き返してきた。何事もなかったかのようだった。
 大男は県警捜査一課の飯沢と名乗った。子供なら喜ぶと思ったか、警察手帳を見せてくれた。警部だった。僕はあらためて相手の顔を見つめた。長方形の顔。真一文字の口。小さな鋭い眼。無造作になでつけた灰色の髪。眉間や口元に、哀しげな皺が刻まれていた。
「君が最初に見つけたんだね」明瞭な発音だった。
「最後に話したのも、たぶん僕です」
「何を話したのかな」
「話があるから体育館の裏でって」
「どんな話?」
「わかりません。重要そうでした」
「人前で話せないことかな」
「それはいつもです。僕とは釣り合わないんで」
 警部は調子を狂わされたようだった。子供を相手にするのは慣れてないのだ。彼は曖昧な笑みをつくった。
「謙虚なんだね」
「子供の世界ってそんなもんです」
「見当はつかない?」
「読めた試しはありませんよ。お嬢の考えなんて」
「お嬢か。みんなそう呼んでたのかね」
「僕はマロ。眉毛薄いから」
 寝癖刑事が、真意を探るような目つきをした。制服警官たちは、子供は突飛なことをいいだすものだ、とでもいいたげだった。僕は担任のほうを窺った。彼は窓の向こうを眺めていた。何か他のことでも考えてるようだった。
「マロ君。お嬢には最近おかしな点はなかったかね。何か悩んでたとか」
 おかしいのは家族だ。お嬢は読書の世界に逃避してた。自尊心が高く、他人を頼らない彼女が、眉毛なしのマロに愚痴をこぼすほど追い詰められてたんだ……。そう大声で叫びたかった。でもそんなことをすれば唯一のつながりが失われる気がした。
「さあ。特に」
 僕の内心を読んだとしても、警部は態度に表さなかった。
「ご協力ありがとう。あとでまた訊くことがあるかもしれない。そのときは頼むよ」警部は立ち上がった。影が落ちて暗くなり、視界が彼の体に占領された。「お友達は気の毒だった」
「お気遣いどうも」

 生徒たちは追い返されて命拾いしたのではと思う。銀行の倒産さながらの、圧死しかねない騒ぎだった。
 校門にひしめきあう報道陣や野次馬。校長室と職員室は、問い合わせの電話が鳴りっぱなし。教師たちは対応に忙殺された。子供の死を説明するほどつらいことはない。教えられることが何もなければ、なおさらだ。
 僕は裏門からこっそり出してもらった。ひとりで大丈夫かと、小岩井先生に何度も訊かれた。人が死ぬのには慣れてるし、図書館に本を返さなきゃいけないから。そう答えると彼女はギョッとした。ブラジルはじっとこっちを見ていた。
 取材陣を避けるのに、遠まわりを強いられた。静かな図書館で本の匂いを嗅ぐと、急に疲れを感じた。
 鞄の底から『黄色い部屋の秘密』を出し、返却した。絵本の棚へ行き、『銀河鉄道の夜』を抜き出した。児童書と文庫本の境には、臼歯形のソファーが並んでいた。そこで頁をひらき、文字を目で追った。頭に入らない。砂を噛むようだった。
 自動ドアが開くたびに顔をあげた。我が物顔の老人。幼児を連れた若い母親。揉めごとを探す眼の中年男。太い脚の女子高生。さすがの晴彦も今日は現れず、それが事件が幻でないことを示していた。
 膝に本を広げたまま、前掛けをした職員たちを眺めた。女性が多かった。書架に本を戻す。資料捜しの相談を受け、キイボードを叩く。年齢も容姿も異なるのに、彼女たちの姿はお嬢を連想させた。
「体育館の裏。話があるから」どんな話? わかりません。重要そうでした。人前で話せないこと?
 内密の話。不良が焼きを入れる場所へ、僕をわざわざ呼び出す。そして用件を明かさぬまま刺殺された。あんな恰好に固定されて。似つかわしくない卑猥な身ぶり。
 真夏でも長袖のボタンを襟元まで留め、汗ひとつかかない。そんな彼女だ。ブラジルの心遣いがありがたかった。少なくとも、僕らふたりが目撃しただけで済んだ。
 紛争地の記事を想い出した。密告者の処刑で、見せしめに猟奇的な傷を負わせるという。署名のようなものだ。犯行を芸術作品と捉える異常者も、同じことをするとか。
 確かにお嬢は、仁美みたいなアイドルでも、タカケンみたいなひょうきん者でもない。どちらかといえば好かれてなかった。かといって恨みを買うような子でもない。
 親の恨みを子が被ったということもある。遺体への冒涜がその犯行メッセージなのか。それにしては明快さに欠けた。そもそも意味があるかもはっきりしない。
 おそらく犯人にとっては誰でもよかったのだ。獲物を物色中、たまたま視界に入った——人目につかぬ場所へ、独りで歩いてくる女子生徒が。ちょうど下校時で騒がしかった。声を発する余裕があったとしても、誰の耳にも届かなかった。お嬢は魂を踏みにじられ、最期を迎えた。あんな寂しい場所で。たった独りで。
 そう考えるのはつらかった。もう少し早く着いてさえいれば。彼女の死を決定づけたのは僕だった。責任があろうがなかろうが、その事実は背負わねばならない。
 お嬢。あんたいったい何が話したかったんだ。
 本を閉じた。思いのほか音が響いた。働く車の絵本を選んでいた母子が、驚いて振り向いた。僕は本を書架へ戻した。
 顔なじみの職員に、カウンターで呼び止められた。ロングヘアはどこか白人の黒髪を思わせた。黒セーターと細身ジーンズ。左腕にリストバンドを巻いている。帆布の前掛けに名札をつけていた。黒沼美紗子。
「いつもの彼女は?」
「もう来ないんだ」
 表へ出た。錆びた骨は、変わらず傘立てにあった。
 交通の激しい銀杏ロードを折れた。終末を警告しつづける犬の声。奇怪な増築を施された屋敷が見えてくる。
 くすんだ灰色の瓦。酸化した脂の色の木材。干からびた牛糞みたいな漆喰。庇のついた土塀に囲まれていた。門はどこかの寺が後継者不足で閉ざされるとき、強引に召し上げたものだ。右側には白いブリキ看板。荒々しい筆づかいで記されていた。
「本多羅教本部」
 祈祷の唸りが聞こえてきた。守衛小屋のオニギリ頭が、経典から顔をあげてこっちを一瞥した。体育大で柔道部主将だった信者だ。その前を過ぎ、敷石づたいに玄関へ。椿の厚い葉が生い茂り、暗くてじめじめしていた。
 縁部家は代々、教員の家系だった。父上の若き日、地元大学の教育学部では受験者が激減していた。教育大が別に新設され、教員養成過程がなくなったばかりだったのだ。入学も、院へ進むのも容易だった。
 大学では躁病の心理学教授が幅をきかせていた。一種の教育カルトだった。ちなみにこの教授はのちに失職。鬱で廃人同然になる。直継青年はそこで学び、そして知った。力が何をなし得るかを。
 教材会社に就職した父上は、ひと月で馘に。その後は職を転々とした。政治事務所に出入りしたり、知人の宗教団体を手伝ったり。やがて独自の事業を起こした。時代がよかった。教団の発展につれ、屋敷は建て増しを重ねる。近隣を信者に巻き込み、さらに敷地を拡大した。
 板張りの道場。百名ほどがお題目を唱え、伏し拝んでいた。男で坊主頭でないのは在家信者だ。
 祭壇前の高座には、教祖がふんぞり返っていた。毛虫みたいな眉。仙人めいた灰色ヒゲ。瓢箪みたいに腹の出た体。胴長短足で、筋ばった体つき。眼光は狂気をたたえ、戦中の憲兵を思わせた。胡座をかいている座布団はヒーター入り。金糸を用いた衣裳には、使い棄てカイロが仕込まれていた。
 僕はずんぐりむっくりで猪首だ。両親のどちらにも似ていない。母は統合失調症の家系に育ち、晩年は針金みたいに痩せ細っていた。彼らは自信に満ち溢れていた。僕の顔に滲み出ているのは敗北だけだ。そうした刻印は成人後も残る。
 人生相談の客が、煎餅座布団にかしこまっていた。身なりのいい母親と、能面みたいな顔の娘。教祖の微笑は慈愛そのものだった。自信に満ちた力強い口調で諭した。
「私はあまたの悩める人を救ってきた。その経験からいって、非常に難しいケースです。すべては前世の祟り。御祓いが必要ですな!」
「どうかうちの子を……!」
「心配御無用。ただひたすら帰依すればよいのです」
 すがりつく母親を払いのけ、教祖は急に立ち上がった。紙垂のついた榊を振り下ろし、床を踏み鳴らす。奇声を発した。
「精進じゃーっ!」
 祈祷のうねりが高まった。
「あ本多羅陀〜、あ本多羅陀〜……」
 母親は周囲にならって、額を板の間にすりつけた。虚空を見つめる娘に気づき、その頭を慌てて押さえつける。床を打つ鈍い音がした。僕は末席に加わり、伏し拝んだ。そうして帰宅を報告するのだ。
 これだけ大勢の信徒がだれひとり、父の当てこすりに気づかない。理解できなかった。父はこう説教した。
「衆生はァ、本多羅陀ァ」
 信徒はあほんだらだ、と嘲っている。経典では巧みに明言が避けられていたが、父は自分を神と見なしていて、あほんだら呼ばわりされる信徒もまたそう信じていた。みんな騙されるのが好きなのだ。何もかも搾りとられるのが。
 その美しい快楽の妨げになるから僕は嫌われていた。
 僕は食事に行った。
「奉仕員詰所」は刑務所の食堂を思わせた。精進料理と称するものを、当番の女たちが支度する。お勤めを終えた信者が食べにくる。そんな決まりだった。
 生前の母は、ここを独りで受け持っていた。手伝いながら愚痴を聞かされたものだ。それでいて彼女は、僕にはいっさい批判を許さず、俗世で穢れたと決めつけた。夫が周囲に及ぼす影響を、自分の力みたいに感じてたのだ。降りかかる火の粉は息子に押しつければよかった。僕は文字通りの生け贄だった。
「禊ぎの儀」のスタイルは、そうして自然にできあがっていった。信者の大半はその成立過程を知らない。最初期の信者は、多くが儀式で姿を消した。あるいは自ら命を絶った。
 母は当然の結末を迎えた。不注意による事故、そう処理された。捜査はされず、保険金まで下りた。どんな階段であんな傷を負えるのか。警察は家庭内の問題には立ち入らない。保険会社にしても、カルトを敵に回したくはない。
 事件後、組織改変や改築があった。場当たり的な素人商売だったのが、効率よく機能するようになった——権力構造も、末端から金を吸い上げる仕組みも。台所は「詰所」になった。母は古い時代を象徴する存在となった。
 端が黒ずみ、ちらつく蛍光灯。量を気遣ってご飯をよそい、長いテーブルに着く。潰れた居酒屋から、強引に譲り受けたものだ。手を合わせて一礼し、箸を取り上げた。老夫婦の視線を感じた。聞こえよがしな囁きが耳に入る。
「教祖様もお可哀相に……」
 ほかの数名は僕を無視していた。
「リストがあんの。それを頼りにスーパーで近づくわけ。買物中たまたま話しかけたみたいに」
 勧誘担当の女が、手口を披露していた。
「面白いほど引っかかる。子供の情緒不安定で悩んでるでしょ。それとなく話を振るのよ。親身なふりして。何であんな簡単に他人を信用するのかしら。訊いてもないことまで涙目でペラペラ喋る。専門家を紹介したげるっつうと一発でコロリよ。今日の親子なんかいいカモだったわ」
 得意げに高く笑った。数名が調子を合わせた。隣席はニキビ面の高校生だった。拳で握る箸から、口へ運ぶより多くの飯粒をこぼす。飯粒は顎にもついていた。
「おい駄目息子。ほんとの死因知ってるか? おまえの母親」彼の口は磯巾着を思わせた。溶けた黒い歯が見えた。「庇おうとしたのさ。ご指名を拒否した挺身員を。教祖様、マジ気の毒」
 新参者の聞き囓りか。僕はうんざりした。庇おうとなんてしてない。愚図だっただけだ。父上はその後、ぐったりした妻を息子に蹴らせた。そして「お前が殺った」と宣言した。高校生は飯粒を噴き出し、屠殺される豚の声で笑った。
 偉大なる教祖様は、夜七時に道場をひきあげる。執務室に籠もり、加持祈祷を行う。そういうことになっていた。実際はこうだ。目をつけた信者を、何人か呼びつける。料亭から取り寄せた料理を平らげる。お笑い番組を観る。体を洗わせ、お祓いを施す……。
 一方こっちは、軽く水風呂を浴びる。全員のお勤めが終わるのを、薄い白服と裸足で待つ。ドライアイスみたいな板の間でだ。並の人間なら三日ともつまい。暴力は人生を変えてしまう。こんな呪われた生活がそうあるとは思えなかった。
 すべてが終わるのは深夜一時半。宿題は学校か、図書館で済ますことにしていた。黴臭い煎餅布団を、道場の床に敷き詰める。そうして雑魚寝するのだ。冬は腕力のある者が掛け布団を独占する。寝相のいい者ばかりではない。歯ぎしり、鼾。隣に寝ている奴の下敷きになることも多かった。
 その日も悪夢にうなされた。夢は記憶を消化吸収する過程だと、何かで読んだ。そうなのかもしれない。小便を漏らす男子。遺体を前にした担任。立ち働く鑑識員。疑わしげな眼の警部……。あらゆる光景が反芻され、そして最後に見えた。
 銀杏に縛りつけられた少女が。
 胸から下を真紅に染めている。突き立てられた小刀の柄は、水平ではない。わずかに下を向いている。
 突き上げ気味に刺されたのだ。彼女より背の低い人間によって。

「先生おはよう」
 白っぽい朝の光。一番乗りだった。黒板側の引き戸を開けると、ブラジルが眼に入った。空気は乾いてまだ冷たい。動きだして間もない街の騒音が、窓越しに聞こえた。蛍光灯は消えたまま。電気係はまだ登校していなかった。
「おはよう。出てきて大丈夫か」
 担任はやはり顔も上げなかった。今度は算数ドリルの丸つけだ。詳しい解法がおまけされた。僕は鞄の中身を机に移した。
「家にいるよりマシです。お嬢のお母さんは?」
「病院で逢った。大事な商談を放り出して駆けつけたようだ。旦那に親権を取られたのを悔やんでた。遺体の確認にも取り乱さなかった。気丈な方だ」
 なぜそこまで生徒に話すのか。奇妙に思いながら、頷いた。「ああ、冷静な親っていますね」
「立派な親御さんだ。気の毒な方だよ」
「父親とは違うと?」
 彼は手を休め、初めて僕を見た。感情の読みとれない眼。裸で立つ気分にさせられた。
「やっぱり連絡つかなかったのか……。警察は何て?」
「外傷は胸だけだそうだ」
「ほかには何もされなかった?」担任の反応はない。それを僕は肯定と見なした。「これまでで一番マシな報せですよ」
「また聴取に呼ばれるかもな。君たちに迷惑がかかる」
「僕だって重要参考人ですよ。第一発見者が怪しいっていうでしょ」教室の後ろの棚に、鞄を突っ込んだ。「みんなにはどう説明するんです」
「臨時朝会がある。教頭が命の大切さについて話すそうだ」
「僕は黙ってるべきですか」
「だろうな。強制はしないが」
「校長先生は?」
「縁部が帰ってすぐ、病院に運ばれたよ。二、三日休養が必要だそうだ。奥さんからの電話ではね。そうはいかないだろう」
「働くって大変ですね」
 ブラジルは僕の肩越しに、教室の後ろの掲示を眺めた。写生会の作品が貼り出されている。神社の境内や狛犬が描かれていた。
「図書館仲間がいなくなって寂しいか」
「泣かせたいんですか」
「溜め込むよりはいい」
「ひどい気分ですよ、先生。でも彼女のお母さんに較べたらマシです。乗り合わせた他人が、別の駅で降りただけですから」
「寺井は賢治が好きだったな。短かくても一緒の時間を過ごせたろう。それは無意味か?」
 僕は考えた。「価値があったと思います」
「あの本に書かれてるのはそういうことだ。ところで縁部、警部に嘘ついたな」
「よくお見通しで。お嬢は問題を抱えてた。他人の家のことはわかんないけど。『幸せな家庭の幸福はどれも似通ってるが、不幸せな家庭の不幸はそれぞれ』ってね」
「いいか縁部。財布の件は感謝してる。でも、ごっこ遊びと現実を混同するな」
 担任の態度には、普段と何の違いも見出せなかった。彼は採点を再開した。何かが閉ざされ、僕たちは教師と生徒に戻った。
「わかってますよ……」
 女子集団がかまびすしく入ってきた。僕の返事はかき消された。


(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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