柳楽馨さんの訳によるサミズダート版で読んだ。 こなれた訳文のせいか、 ピンチョンがそのように書いたからなのかとても読みやすかった。 その読みやすさが曲者で、 『LA ヴァイス』 のチャンドラー風がどこかパロディめいていたのに対し、 こちらは同時多発テロの陰謀を巡るハードボイルド小説としてあまりに自然に読めるので、 エンターテインメントとしての完成度の高さから、 ついピンチョンだと忘れそうになる。 ワイン泥棒のシークエンスに出てきた怪物の正体は? とか、 悪臭兵器のギャグに必然性あるの? などと、 ピンチョン印のギャグや幻視がいささか浮き上がった印象を与え、 あたかも回収されなかった伏線や明かされなかった謎であるかのように感じさせられるほどだ。 しかしそこはやはり彼らしく、 突拍子もない発想や独特なユーモアで五分に一度は笑わされる。 文字通り 「嗅ぎまわる探偵」 が出てきて、 ウクライナのテレビシリーズにそういうのがあったなと思いきや、 その後のおふざけにはウクライナ人もびっくりだ。 実在の俳優が実在の人物を演じる架空の伝記映画 『なんとか物語』 という、 ファンにはおなじみのギャグもある。 あれ日本だとどんな感じだろうね。 斎藤工演ずる 『志村けん物語』 とか? すみませんわかりません。 ディカプリオがロスコー・アーバックルというのは笑った (その映画でハメットはだれが演じるのだろう?)。 しかし女性が主人公の話で、 終盤にそのギャグをぶっこんだ理由ってなんかあるのかな。 あるような気もするし、 そこまで考えてない気もする。
『ヴァインランド』 の主人公の娘が二児の母になったような世代がこの物語の主人公。 ピンチョンは一貫して同じ話をずっと書きつづけているかのようだ。 政治的に偽装された現実と、 その背後の悪意。 そうした物事の象徴として本作ではインターネットが描かれる。 『競売ナンバー 49 の叫び』 で予言した作家が 『LA ヴァイス』 で明確に言及し、 本作ではさらにその先、 広く普及した時代を書いている。 当時の空気を憶えていればおわかりいただけるかと思うけれど、 ブログ (ウェブログと呼ばれていた) に代表される個人メディアは、 あたかも民主主義や、 自由な言論を実現するかに夢想され、 そのように喧伝されたにもかかわらず、 実際に広まり定着してみれば、 より効率的な手段を権力に与えたに過ぎなかった。 そもそもインターネットは地上の人間が死に絶えても国体を維持するために考え出された。 そうした性質の網がやがては掌に収まってひとびとを絡め取り、 自由に見せかけた支配が完成する⋯⋯それは同時多発テロ後の世界を生きるわれわれが今まさに経験している現実だ。 ピンチョンの描く陰謀はいまやパラノイアどころかただのありふれた日常となった。 われわれ個人の良心と身体はインターネットのおかげでわれわれ自身に属さなくなった。 人権を悪と信ずる自粛警察の監視に怯えて暮らさねばならない。
本作は題材といい主人公の設定といい 『パターン・レコグニション』 をどこか思わせる。 『パターン⋯⋯』 は 「多国籍企業の商業主義によって個人が規定される世界」 を描いた傑作で、 これぞまさしく現代社会、 と当時の読者は驚かされたものだった。 ギブスンにとっても会心の一作だったに違いない。 ところがあれから十五年以上が経過してみると、 記号化されたブランドも所詮は権力の手段でしかなかった。 ギブスンは確かに晩年のティモシー・リアリーの影響を受けているし、 ティモシー・リアリーはコンピュータを、 創造性を高め意識を拡張するものとして LSD の延長上で捉え、 モデムを通じて真の民主主義が実現されるとまで夢想したそうだけれど (もちろん本書もその発想を踏まえている)、 いち Apple 信者でしかないギブスンに対して、 ピンチョンの政治的姿勢は筋金入りで、 応用物理工学の素養もあり、 正直、 格が違う印象は否めない。 陰謀の背後にある権力、 不可視の悪は事件が解決しデータセンターが壊滅しても、 幻視のように一瞬かいま見えるだけだ。 結節点はほかにいくらでもある、 何しろそれがインターネットの本質だから。 『パターン⋯⋯』 の時代にはまだそこまで見えていなかった。 金で買える洗練された希望が立ち現れたかのようにしか映らなかった。 本作を読んだあとでは元ネタがいささか軽薄に感じられるのは否めない。 師匠、 大人げないなぁ。 わたしがギブスンなら寝込むよ。
優れたハードボイルド小説のつもりで読みすすめていたら家族小説だった、 というのも嬉しい驚きだった。 しかもきっちりハッピーエンド。 殺人事件も家庭のいざこざもひとつの主題に結びつき、 「いいのか?」 と後ろめたくなるほど直球の大団円で解決する。 序盤においては、 「主人公がどんな人物なのか結局よくわからない」 という一視点ハードボイルド特有の制約が感じられたし、 なんでここでこんな男とこうなるんだよ、 とこれもハードボイルドにありがちな濃厚接触にモヤモヤさせられたりもしたけれど、 それもこれもすべて後半の展開で結実する。 まるで寄り目で焦点を結ぶ立体像みたいに、 人物像が浮き上がってくる。 それをなさしめるのは家族や友人たちとの関係性だ。 人物を描くには内面だけではなく周囲とのかかわりを描くのが効果的だ。 同時多発テロをきっかけとして夫との関係性が変化していく描写もいいし、 主人公の眼に映る、 不器用ながら変わろうとする夫もいい。 いがみ合いながら互いに歩み寄ろうとする母娘もいいし、 あいだを取り持つ 「ユダヤ系の母」 (ポール・ラドニック 『これいただくわ』 参照のこと) たる主人公もいい。 老いた父親の口から語られるインターネットの出自と、 個人を支配する現代のウェブ、 そして次世代の仮想世界。 それらがウッドストック世代というかパロアルト世代とファミコン世代、 生まれながらに携帯やインターネットが当たり前の世代という、 親、 子、 やがて旅立つ孫世代に重ねられる。 主人公が子どもたちの後ろ姿に見出すのは希望だ。 とても美しい結末だと思う。