D.I.Y.出版日誌

連載第118回: ブレードランナー 2049

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2018.
03.04Sun

ブレードランナー 2049

昨夜ブレードランナーの続編を見はじめて、くどいくらいのオマージュぶりに序盤はニヤニヤしていたのだけれども、あまりに女性嫌悪がひどくて中盤で挫折した。生身の女性、というかセックスや出産や格闘技(ムエタイ? キックボクシング?)など、女性の身体性を嫌悪して虫のいい幻想を消費するだけの主人公も、生理的に気持悪い。クリーチャーが造物主を殺害する場面の逆をやっているのだけれども、逆の逆で普通になってしまってどうする。やるならばさらに現実の裏をかかねばならない。

日を改め、がまんして最後まで見た。こんな直近の映画までパクっちゃうのかよと思った。女性嫌悪と対になった二次元コンプレックスを語るためにアナ・デ・アルマス(の裸)を見せたいだけの映画なのだろう。それなら金子修介『いたずらロリータ 後ろからバージン』のようにそこだけに絞るべきだった。しかし今さらそれをやったところで是枝裕和『空気人形』には到底かなわない。男の身勝手さに対する視点がないからだ。いずれにせよブレードランナーでなくても、いやむしろブレードランナーでないほうがよかった。

おそらくドゥニ・ヴィルヌーヴは主人公Kのように中身が何もない人間なのだろう。前作『メッセージ』にも同じことを感じた。からっぽな自分をもっともらしく見せるために都合のいい幻想女のスイッチをオンオフしたり、折り紙の一角獣をぱくった木彫りの馬に執着したりするのと同様に、映画もまた都合よく過去の映画を寄せ集め、もっともらしく飾り立てる。気色の悪い女性嫌悪だけで、あとはからっぽだ。相手が生身の女だろうと都合でオンオフしかねない。

からっぽである事実を指摘されて若い女を殴る団塊男を村上春樹も描いているけれど、まさにそんな映画だった。からっぽな人間を描いた映画ではなく、単にからっぽな人間が撮った映画だった。さまざまなSF映画からの引用はそのつまらなさを埋めてもっともらしく飾り立てるためのお上手な手段にすぎない。長すぎる退屈な演出もまたタルコフスキーっぽく見せかけるため、あるいは「古典作品をよく勉強しているね」と褒められるためでしかない。

この映画には何もない。からっぽなのはあなた自身がつまらない人間であるせいだ。気に入らないからといって女を殴るな。しかもその最低な行為を、名作の権威を都合よくつまみ食いすることで立派に見せかけようとするな。なんと卑劣で姑息な根性だろう。あきれかえった。

アナ・デ・アルマスはよかった。あの露骨なパクリが純粋に彼女の演技だけで元ネタを越えた。彼女が何を演じたか監督はおそらく理解していない。サイコパスのストーカーを愉快な西部野郎くらいに捉えた喜劇映画で見せたマリリン・モンローの演技に匹敵する。映画のひどさに見合わない、あまりにも勿体ない演技という意味で。まわりの男たちがだれもその意味を理解しない状況で、商品として成立させつつそのような演技を残したという意味で。

さて映画において主導権を握る人物は右側、という原則をふまえてアイキャッチの画像と次の画像を見比べてほしい。こういうショットを撮れるなら彼女の話に絞るべきだった。あのパクリシークエンスで利用されているのは、元ネタと違って娼婦のほうではないのである。その感傷性をドゥニ・ヴィルヌーヴはどれだけ理解していたのか。わかっていなければ撮れない場面ではあるし、わかっていればこんな映画にはならなかった。

ブレードランナー2049


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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