杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第31回: Ballad of a Thin Man

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.06.21

 柳沢美彌子は世界を憎んでいた。性別や年齢、容姿、身につけているもの、試験や営業の成績、出自や所属組織、収入や婚姻歴といった表層で値踏みし、内側にあるものには決して目を向けない社会を憎んだ。そのような世界にあって知能や身体に恵まれた我が身を疎んだ。
 羨望や期待は蔑みに等しかった。だれも彼女の努力を見なかった。悩みを、哀しみを、苦痛を、怒りを見なかった。そのようにして育まれたどす黒い内面を無視した。裕福で善良な両親でさえそうだった。社会の基準に愛された彼女をだれも愛さなかった。恵まれた人生と呼ばれた。あたかも優れた数値だけがそこにあって生身の彼女など存在しないかのように。
 田辺美樹だけが違った。そのことが彼女の人生を致命的に変えた。
 十七歳の初夏だった。校庭のかけ声や吹奏楽部の調子はずれの音、レースのカーテンをはためかす風と午後の陽光のみを憶えている。してみると彼ひとりだけが補講を受けていて、美彌子は教師から何か言づけを頼まれたのだろう。生徒会長の役職を当然とみなされた美彌子と、単位取得にかろうじて足りるだけ姿を見せる美樹に、普段の生活で接点はなかった。
 美彌子はそれまで決して他人に関心を抱かなかった。周囲を心の内で蔑みながらやり過ごすばかりだった。それが社会に求められる適切なふるまいだと知っていた。ひとはだれもが見たいものを見ようとする。演技の綻びを疑う理由はなかった。それゆえに彼女は強面の教師も、悪い噂のある男子も畏れなかった。存在しない人間は何者にも傷つけられない。
 なのに美樹だけは騙されなかった。なぜどうでもいい他人のために感情を偽るのかと残酷な挨拶のように問われた。会話の脈絡を無視した指摘だった。美彌子は狼狽し、ついで説明のつかぬ恐怖に襲われ、何も答えず逃げるように教室を立ち去った。
 表情の変化に乏しく何を考えているかわからぬ男だった。自分も多くの同級生より長身だったが美樹はさらに大柄だった。陰気な目つきをして、ごく少数の友人としか関わらない。もっとも親しいのは素行の悪い集団に属するひとりと、肥満に起因する緩慢さをからかわれているひとりという、およそ考えがたい組み合わせだった。
 醜い自分をよりによってこんな男に知られた。ばらされて笑いものにされやしまいかと気になった。求められることでのみ可視化され得る人間に逸脱は決して許されない。美樹のような異人種は初めから社会に疎外されている。何も持たない人間は棄て身で何をするかわからない。
 動向を畏れて目で追うようになった。授業で指名されたときや友人たちと話すとき彼の発する言葉に耳をそばだてた。偽りの外へ導いてくれる存在として見るに至ったのは書いているのを知ったからだ。体育の授業でだれもいなくなった教室で、美彌子は彼の机を漁った。ノートを見つけた。
 書き散らされた物語には紛れもない彼女自身の姿があった。
 そのときまでに何度か美樹と会話を交わす機会があり、名前すら憶えられていないのを知っていた。美彌子は彼に同級生のひとりとしか認識されていなかった。おまけに物語は中年男の一人称で、陰惨な暴力を巡るダークファンタジーだった。書いた人間にそのつもりがないのは理解していた。身勝手で一方的な感情だとの自覚もあった。そうであってもその物語は美彌子の人生を映したものとしか思えなかった。
 美樹の魂には何か相通じるものがあるに違いない。ただの想像だけでこのように鮮明にまざまざと描けるはずがない。彼はその物語を親しい友人にのみ読ませていた。美彌子は己の暗部を盗まれたように感じた。許せなかった。他人に読ませるのならばせめて自分の手を汚して世に知らしめたい。
 世界でただひとり後ろ暗い秘密を共有する男。わたしを理解するのは彼だけで彼を理解できるのはわたしだけだ。ほかのだれにも渡さない。彼の書くものを伝え広めるのは自分でなければならない。叶わねば彼を殺しあのノートを焼いても構わないと誓った。
 耳元に生臭い息で囁かれ、二十年前の回想から美彌子はわれに返った。悲鳴を喉元で押しとどめ、身を退いて相手を睨みつけた。
 ゴキブリやドブネズミのように編集部に出入りする三流ライターの金舟きんぶね泰造たいぞうだった。仕事などないと何度はっきり断ってもしつこく付きまとい、書いてもいない記事を売りつけようとする肥った小男だ。年中同じナイロンジャンパーを着て生ゴミのような体臭がする。文才や感性を問う以前に、中学校卒業程度の国語力も常識も持ち合わせていない。自己愛と厚かましさだけが抜きん出ていた。
「やはり聞こえていなかったのですね。あなたが絶対に興味を持つネタをつかんだといったのですよ」
 金舟は目をアーチ型に細め、前歯を剥き出してひっ、ひっとうわずった笑い声を立てた。
「いつもいっているでしょう。ここは文芸編集部です。そういう話なら芸能部に持ち込んでください」
 美彌子は生理的嫌悪を振り払い、金舟を無視して机に山積された資料に意識を戻そうとした。
「田辺美樹の消息でも?」
 美彌子は反射的に振り向き、金舟の思惑に嵌まったのを知った。
 金舟は獲物を陥れた獣のようにニッタリ笑った。
「週刊誌に書き立ててほしければそうしますがね。こちらとしては金になればどちらでもいいんで。親切のつもりで先に声をかけたんだが……」
 美彌子は立ち上がり、金舟の腕をつかんで衝立で仕切られた応接セットへ連れて行った。素速く周囲を盗み見たがだれにも気づかれていない。手を洗いたかったがこらえた。
 同姓同名の男が東北地方でウェブ制作会社を経営している。その男が近々、ウェブマガジンとソーシャルメディアの混合のような会員制サービスをはじめようとしているらしい。同一人物ではないかとネット上で噂になっていると金舟は語った。
「いつものでまかせじゃないでしょうね」
「ひどいな。御社の売上に貢献しているのに」
 金舟は携帯を懐から出し、指先で画面をつついて美彌子に差し出した。青葉市の商店街で先週撮影されたという画像を美彌子はじっと見つめ、それからいった。「ほかのだれかに話した?」
が初めてですよ」厭味たっぷりに金舟はいった。
「まだ口外しないで。原稿料は払う」
「おやおや。稿料だけですか」美彌子の表情をたっぷり愉しんでから金舟はつづけた。「この件についちゃ今後あたしに一任してもらいましょうかね。独占インタビュー権も含めて」
「まず事実を確かめてからよ」
「さすが用心深いですな」金舟は口の端を歪め、肩をすくめて立ち上がった。「……ま、お好きなように。断っとくがあたしを出し抜こうたってそうはいきませんよ。こっちは他社に持ち込んでも構わないんだ。いつまでも待ちはしませんからね。ナベミキの新作をほしがる編集者はあんただけじゃない。それに」去り際に振り返り、ニタリと歯を剥き出した。「あんたはもう彼の妻じゃない。何の特権もない」
 後ろ姿が見えなくなっても美彌子は茫然と立ち尽くしていた。あいつに何かされたのか、と男の同僚に気遣われた。何でもない、心配ないと答えて追い払った。おかしな目つきで見られた。
 美彌子は席に戻り、金舟に教わった社名を検索した。会社概要の所在地には青葉市とあり、代表取締役は確かに田辺美樹となっていた。「ナベ」の筆名で書かれた記事をいくつか読んだ。見誤りようもない。ナベミキの文章だった。彼はまだ生きている。
 数年前に取材で関わった探偵にメールした。すぐに返信があり、彼の事務所で会うことになった。
 十日後に報告を受けた。同一人物に相違ない。接触し、本人も認めたという。編集長に事情を打ち明けた。行ってこいといわれた。ただし必ず原稿を携えて帰るのが条件だ。許されたのではなく職務命令だった。新幹線で二時間。さらにローカル線で二十分。どうしてこんな田舎にと悔しかった。裏切られた気分がよみがえった。苦く惨めだった。
 三叉路の角にある奇妙な建物で美彌子は田辺美樹に再会した。長い年月が経過しているのに互いに驚きはなかった。入れよ、靴は脱がなくていいと美樹はいった。
 さぞかしひどい口論になるだろうと身構えた。実際には美彌子が一方的に感情をぶつけただけだった。アパートの住民が仲間を護るかのように集まってきた。あたかも家族のように。美彌子は孤独が周囲から圧力のように押し寄せるのを感じた。だれひとり味方がいない……いや、違う。背後に社会のニーズがついている。自分は正しい側だ。彼をもっとも理解する女として責任を取らせねば。
 彼には社会に求められる価値がある。責任の重みはこのように無視してよいものではない。この男のためにどれほど多くの場所で頭を下げたことか。あれほど責めなじられる経験は人生でほかにない。あがなわせるのだ。こんなくだらぬことに才能を空費する身勝手を許してはならない。
 失踪後に書いたものをすべて見せるよう美彌子は強要した。たとえ身内でも個人情報が絡むので開示できないと拒まれた。ともに暮らしていた時期も一度として口論で負けたことはない。認めさせた。
 編集会議で美彌子はナベミキを過去の作家呼ばわりする副編集長や同僚と対立した。青葉市では演じられなかった口論がそこでは生じた。会議というよりもつかみ合い寸前の喧嘩だった。復帰させて三十万部のベストセラーを書かせると美彌子は啖呵を切った。
 嘲笑された。辣腕編集者と呼ばれたあの女も終わりだと陰口を叩かれた。美彌子は気にかけなかった。新作の原稿を手に入れること、美樹を取り戻すことしか考えなかった。
 新サービスの準備で美樹はたびたび過集中に陥った。美彌子は過保護な母親のように身のまわりの世話を焼きながらその隙を狙った。美樹は朦朧として自覚のないまま複数の書類に署名した。失踪前に連載を中断していた大作『血と言葉』を完成させることにも同意した。
 美彌子は夫を奪った世界を憎んでいた。わざわざ与えておきながら取り上げた世界を。裏切られた苦痛を味わわすためだけに神はそうしたのだ。しかし彼を取り戻したいま、もう一度だけ信じようと考えた。
 新作への評価がその答えとなる。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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