杜 昌彦

GONZO

第19話: 盗まれた年

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2021.01.24

 過去の影が変異をくり返しながら感染力を増し、悪意によって世界中へ拡散するさなか、姫川尊本人は車内で仏頂面をしていた。運転する梶元権蔵も不機嫌だった。偽装父娘おやこは口論がもとで宿を追い出されたのだ。より北へ、より辺鄙な街へと中年デブの殺し屋は赤いロードスターを走らせた。東北にあるのは都会人のための発電所とゴミ処理場と田畑と海と観光地だけだった。観光地としての売りは都会ではないことにのみあった。渚に戯れる水着の男女も鮮やかな熱帯魚もいない、魚介類をとるだけの岩だらけの陰鬱な海があり、刺す虫しかいない暗く湿った山があり、津波の高さを示す標識のある活気のない通りと、倒壊や浸水こそ免れたが、改築はずっと以前に必要だった建物とがあり、汲み上げて沸かした温泉があった。
 ホテルは前の旅館より設備も景色も格が落ちた。露天風呂も会話もなく、それどころかミコトには夕食さえ与えられなかった。ミコトと彼の旅行鞄を部屋に放り出したのち、ゴンゾは一時間ほど外出し、酒の臭いを漂わせて帰ってくるなり服を脱ぎ散らかしてベッドに潜り込み、すぐさま寝息を立てはじめた。ミコトは抜け殻のように床に散乱するスーツから携帯を取り戻すと、化粧を落として黒ドレスを脱ぎ、隣のベッドに入った。空腹は感じなかった。前の晩と異なり、携帯を胸に抱いて唇を噛みながら朝まで天井を睨んだ。そこには黒いアサルトスーツの襲撃者たちがくり返し映し出された。覆い被さる男の頭蓋が破裂し、開けた視界に黒ずくめの家庭教師が映った。肥った老犬は物置の整理でもしているかのような顔で銃を乱射していた。幼い頃から世話を焼いてくれた無愛想な女が殺されたことをそのときになって思い出した。ミコトはその女が物心つく前からずっと嫌いだった。だからといってあんな殺され方をしなくともよかった。そうなると知っていればもう少し態度を控えたのに。心を偽って感謝の言葉を伝えてもよかった。
 翌朝もゴンゾはどこへ行くともいつ戻るとも告げずに出て行った。今度はギターケースを残していかなかった。もらった札束はまだ旅行鞄に収まっているので逃げられぬこともないが世界中が敵に思えてミコトはその気にならなかった。何のために脅され生命を狙われるのか見当もつかず、それがゆえに他人の視線が怖かった。だれもが正体を探り出して警察に売り飛ばさんとつけ狙うかに思えた。食欲もないので部屋を出るつもりはなかった。扉の隙間から手を伸ばして入室禁止の札をかけるのが精いっぱいだった。考えてみれば他人が味方だったことなど生まれてこのかた一度もない。離れにこもって絵を描いていた数日前と大差ないともいえるがあの頃は生命を狙われはしなかった。ただ憎み憎まれて世界と対峙していた。
 時間はコールタールの滴のように緩慢だった。前日から何度もスケッチブックを出しては旅行鞄へ戻している。創作意欲を去勢されたかのようで何も描く気になれない。普段は暗い抽象画となってキャンバスに流れ出す言葉も腹の底深くにうずくまっている。このまま死ぬまで描けぬのではと畏れた。テレビをつけて過去の自分を見るや即座に消した。もとよりテレビは好みでなかった。ドラマもお笑い番組もだれひとりマスクをしていない。疫病の存在せぬ世界を装われるかのようで嘘臭かった。ストリーミングで映画を観ることも考えたが、ひとたび現実の硝煙を嗅ぎ、唸りをあげて頭上を切り裂く弾丸や、弾け飛ぶ血肉を知ってしまうと、どんな芝居も色褪せて感じられた。となるとやはりやれることは限られる。黒ドレスが皺にならぬよう気遣いながらベッドで大の字になり、片手で携帯を弄んだ。虚ろな頭を声の大きな大勢が埋めてくれた。集中力を喪った者が行き着く墓場のような作業だとミコトは思った。
 企業が人間の価値や正しさを決める時代だった。増幅され歯止めが利かなくなった煽動者の声が、画面映えする暴動を引き起こすに至って、掌を返され損切りされるのはこの数ヶ月後である。最適化された選別のあぶくフィルターバブルに閉じ込められ、反響した声を聴きすぎたせいだと識者に喧伝されたがその実あべこべで、より金になる暴力を選り抜いて、雪だるま式に膨れ上がらせ、「絆」に馴染めぬ者を淘汰する商売に、むしろ搾取される側が最適化されすぎたがゆえの帰結であった。煽動者の首がすげ替えられるたび、検閲の是非やら言論の自由やらが論じられる一方で、抗う声ははなから無視され、表示機会を抑制され、そのことにだれも疑問を抱かない。アヴァターも投稿も自ら描いた絵画のみである姫川尊は、本人のあずかり知らぬ盗撮画像こそミーム化し報道に使いまわされ、強力な感染源インフルエンサーにまで仕立て上げられながらも、ほかならぬ彼自身は吸音され淘汰され、まじないめいた抜け道を見出すまで幾度となく、抽象画を連投しただけで永久凍結された。
 世間は公認の生贄を弄ぶばかりで人間性になど関心がない。ミコトが望むのは放っておいてほしいということだけだった。ただ好きな絵を描いていたかった。その彼が絵ではなく見知らぬ他人との絆に救いを求めたのだから気の迷いというほかない。いかに追い詰められたかわかろうというものだ。
 ミコトは肥った家庭教師の冷ややかな態度を思い浮かべた。特殊部隊の襲撃から救出されたかに感じていたが、逃げようと思えばいつでも逃げ出せるとはいえ、この扱いは軟禁も同然だ。よくよく思い返せば初対面からしていきなり殴られたではないか。やはり自分は報道の通り、脅迫や身代金目的で誘拐されたのかもしれぬ。何らかの誤解で警察に狙われているのはまちがいないし、マスコミも警察の味方だろうが、かといってあの家庭教師も信用ならぬ。助けて、と入力して投稿前に消去した。あほらしい。業者とボットばかりのフォロワーが信頼できるとでもいうのか。絆に訴えて救われた美談は災害のたびに流されるデマだと知っていた。
 秘書の細谷に入れさせられたきり起ち上げたこともないアプリの通知に気づいたのはそのときだった。グループへの招待だ。そういう機能があるのは知っていた。新手の詐欺かと考え、気味が悪いと思った。普段の彼なら読まずに消去するが、特殊部隊に使用人を皆殺しにされ家庭教師に拉致され、警察やマスコミを畏れて寂れた観光地のホテルに身を潜めている彼は、控えめにいって普段の姫川尊ではなかった。文面からは安否を気遣い、応答を待ち望む気配が伝わってきた。顔も名前もひとりも思い浮かばぬが、どうやら高校の同級生らしい。同じ教室に居合わせた仲というだけで親近感が湧き、痺れた四肢に再び血が通うかのような温もりを憶えた。これもまた普段の彼ならあり得ぬことだった。指先が勝手に動いて承認していた。何事も起きぬ。正気を取り戻して自分に呆れはじめた刹那、気遣いのメッセージが爆発的に流れはじめた。祭りの花火のような華やかさだった。人間というものを信じてもよいのではないか、との迷いに似た気持をそれはミコトの心に生じせしめた。絆の悦びだった。
 その瞬間をいまの姫川尊はどのように思い返すのだろう。わたしにはこの数十年ずっと重くのしかかる苦い記憶で片時も忘れたことはない。鐘が鳴って教師が出て行ったばかりの教室で男子の叫び声が上がった。取り巻きの男女が集まって騒ぎはじめるのをわたしは見ていた。連日テレビで報じられる有名人が呼びかけに応じて掌中に表示されたこと、企業に媚びたつたない撒き餌に飛びつくほど、被害者が愚かであったことに彼らは狂喜した。昂奮した口調で早口に交わされる侮辱や嘲笑の言葉は、離れた席で次の授業に備えるわたしを深く沈ませた。あたかも直接わたしに向けられた蔑みであるかのように、ひと言ひと言が毒の刃さながらにはらわたをえぐった。あのとき教室で同じように感じた生徒がほかにいただろうか。おかしいと思いつつ声をあげず、仲良しグループが彼をおもしろ半分に公衆の生贄にするのを赦したのはほかならぬわたしだ。級友たちは罠にはめた姫川尊といかにも情に厚いやりとりを交わし、絆の釣り餌で存分に情報を引き出し、しかるのちに彼を警察とマスコミに売った。そのすべてが愉快な冗談であるかのようだった。
 それは午になる前だったが予想に反してゴンゾは帰ってきた。やはり疲れた顔だった。おい飯を喰いにいくぞ、と彼は無愛想に告げるなりミコトが手にしているものに気づいて、ぶつくさ文句をいいながら取り上げた。返してよ泥棒、とミコトが叫んでゴンゾにつかみかかる。泥棒じゃねえ殺し屋だ、と煩わしげに返しながらゴンゾは画面に目を細め、それから急に無表情になった。荷物をまとめろと彼は低くいった。は? とミコトが訊き返すと同時に呼び鈴が鳴った。ゴンゾはミコトを床に突き飛ばして携帯を放り、腰から拳銃を抜いて安全装置を外し、遊底を引きながら扉の覗き窓に身を寄せた。魚眼レンズ越しに何が見えたにせよミコトにも遅ればせながら事態が呑み込めた。ミコトは打ちのめされたように立ち上がり、レースのカーテンの隙間から窓外を覗いた。パトカー数台と妙に角張ったバスのような装甲車が停まっていた。緑がかかった青に白の線が引かれたその車には赤色灯と銃眼らしきものが認められた。困惑した表情の泊まり客や従業員が警官に誘導され列をなして不服げに建物を離れていった。
 指先で何を呼び寄せたかミコトは悟った。同級生らの爽やかな笑顔が脳裏に浮かんだ。絆。


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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