杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第22回: Back Street Girl

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.05.15

 以前から手を焼いていたのではないかとの疑いを美樹がほのめかすと担任の目にぶわっと涙が溢れた。あ、厭な流れだなと明日香が思うや否や教師はわっと声を上げて泣き出した。蔑みの目で明日香に見られても美樹は平然としていた。絶対わかってやってるだろおまえと明日香は思った。本名のことで泣かされたときと同じだった。
 他人の情緒を操る術に長けているのだろう。作家としての職歴はあながち嘘でもないらしい。世間知らずのまま学校を出ていきなり担任を任され、生徒の問題行動に翻弄され、指導力不足を上司に叱責されて弱っている娘を、美樹は最初から標的にしてあんなふるまいを演じたのだ。社会性がないといいながら彼が年齢なりの狡猾さは備えているのを明日香は知った。
 涙ながらに担任が語ったところでは事件は昼休みの教室で起きた。給食指導を終えた担任は職員室での作業のために教室を離れた。そのあいだに数名の男子が岬にちょっかいを出したらしい。
 あきらに同情的な数名からの聴取によれば、ひとりが机を蹴り、落ちた鉛筆を別のひとりが踏みつけたという。それを拾おうとした岬を三人目が指さして汚いといった。大半の生徒が教室に残っていてその様子を薄笑いを浮かべて見ていた。女子のひとりが男子を煽ってけしかけるようなことをいった。
 トイレから戻ったあきらがそれを見て抗議した。男子があきらに乱暴な悪口をいった。数名の女子が聞こえよがしに陰口を囁いた。岬が拾おうとした鉛筆を別の男子がさらに蹴って遠ざけた。その男子をあきらは押しのけて鉛筆を拾い、岬に返そうとした。男子が腹を立ててあきらの肩をつかんだ。あきらは煩わしげにその手を振り払って岬に何か話しかけようとした。
 無視された男子は腹を立ててあきらを殴ろうとした。あきらは身をかわしながら男子の腕をつかんで引いた。殴りかかる勢いのまま男子は岬の机を巻き込んで倒れた。薄笑いを浮かべて囁き合っていた女子たちが悲鳴を上げた。岬は驚いて立ち上がった。その拍子に椅子が倒れ、取り巻いて彼女をからかっていた男子のひとりにぶつかった。
 男子は罵声を上げて岬を突き飛ばそうとした。あきらは岬を抱き寄せて護った。女のくせにと叫んで男子はあきらを殴ろうとした。机を巻き込んで倒れた男子も背後からあきらに殴りかかった。仲間が次々に加勢した。物見高い女子たちはあきらが暴力をふるったと囃し立てた。
 騒ぎを聞きつけて両隣の学級担任が駆けつけたときには乱闘になっていた。あきらは六人の男子を相手に大立ちまわりを演じていた。半数はすでに床に倒れて泣いたり呻いたりしていた。
 女子がふたり職員室まで担任を呼びに来た。ひとりは昂奮していてもうひとりは泣いていた。筋の通った話のできる状態ではなく担任は何をいわれたか理解できなかった。昂奮したほうに手を引かれて教室へ急いだ。もうひとりが泣きながらついてきた。
 教室は爆破テロでも起きたかのようなありさまだった。いくつもの机や椅子が倒れ、床には文房具が散らばり、五人の男子が床に座り込んで泣いていた。目撃した光景にショックを受けて泣いている女子もいた。
 鉛筆を踏んだ男子は自分の尿溜まりに倒れたまま動かなかった。放心状態だった。担任が顛末を語ったこのときにはだれにも知りようのないことだが、彼は翌日から不名誉な綽名で呼ばれるようになり、やがて学校へ来なくなる。
 爆心地のあきらを複数の男性教師が取り押さえていた。彼女は蒸気機関のように暴れて口汚く叫んでいた。
「どんなことを?」美樹は興味を隠さなかった。
「とても口には出せないようなことです」と担任。
「お宅ではどんな躾けをされているのですか」教頭は禿頭を光らせて勝ち誇ったように批難した。
「蔵書を盗み読まれているのは気づいていました。セリーヌは読むなといったのに……」美樹は困惑した表情を装ってはいたがよく見ると頬が緩んでいる。よくぞやったと喝采している内心は明らかだった。小遣いを与えて頭を撫で、次はもっと徹底的にぶちのめせと説きかねない。
 一方的に加害者扱いされるのは明日香も納得ゆかぬが、あきらが学校で悪いことをしたのは事実である。かすり傷とはいえ相手の子らを負傷させてもいる。本来なら菓子折持参でそれぞれの家庭に頭を下げてまわるべきところだ。仮にも保護者なら平身低頭して反省してみせるのが筋だろうに美樹のこの堂々たる態度はどうだ。彼に惑わされた担任と学年主任には、もう少ししっかりしてくれよという気分になった。
 そう思いながらも明日香はお飾り妻のごとく微動だにせず何ら発言しなかった。場の主導権は明らかに美樹が握っていた。いまさら覆せない。早く時間が過ぎ去って解放されることのみを願った。そもそもなぜ自分が同席させられたか理解できない。意見を求められるどころか美樹が喋りだしてからは一度として視線さえ向けられない。決して画面に映らぬひな壇芸人のような心境だった。
 被害に遭った男子たちは早退させたと学年主任が説明した。いずれも大した怪我はなく保護者らに訴える意思はないという。あきら以外にも受験を控えた生徒がいるので彼らも穏便に済ませたいのだ。
 相手が話を終わらせようとしているのを察した明日香は、ここぞとばかり頭を下げた。ご迷惑をおかけしました、あきらにはよくいって聞かせますのでとか何とか、それらしい台詞を発する。このために呼んだんでしょう、義務は果たしてあげたよ、頼むから空気を読んでくれと願ったが、本当に美樹が頭を下げるとは思わなかったので驚かされた。もっとも謝罪の言葉はなかった。
 何かあればまた連絡しますと学年主任がいってお開きとなった。教頭はまだ何かいいたげだった。校門まで担任に見送られた。明日香と担任は水飲み鳥の玩具のように互いにお辞儀し合った。美樹は退屈を隠さず早く帰りたそうな顔でよその方向を見ていた。担任は彼に何か話しかけようとした。明日香が牽制するように暇を告げ、美樹の袖を引いて立ち去る構えを見せると、担任は諦めて引き返していった。
 明日香は隣を歩く大男をまたしても無性に殴りたい気分になった。彼を見上げる若い担任の目が脳裏から離れない。そんな目を美樹に向ける女がいる事実が衝撃だった。
「助かった」と美樹は明日香に礼をいった。「あきらに迷惑をかけずに済んだ」
 俯いた顔が熱くなった。別に大したことではないとか何とか、明日香は謙遜の言葉をもごもごと呟いた。
 先に帰宅していたあきらに手伝ってもらい夕飯の支度は間に合った。作業しながら事情を聞いた。担任から聞かされた話と矛盾はなかった。大人として叱責するつもりだったが面と向かうと腰が退ける。十一歳の児童と話す感じがしないからだ。面談の様子を明日香も話し、図らずも情報交換のようになった。
 食卓を囲みながら女たちは経緯を交互に話した。小学生らしいなとヤンパチは感想を述べ、マシューはあきらが無事だったかどうか気遣った。見ればわかるでしょとあきらは元気に語った。相手側の安否はふたりとも無関心だった。
 担任を泣かせたくだりを明日香が話すと、また「本棚の整理」をしたんだろうとヤンパチは美樹をからかった。彼らだけの符牒であるらしい。明日香はヤンパチに意味を尋ねた。現実の人間を相手に演説することで満ち足りて、何も書かずに済ませてしまうことだと説明された。
「こいつが饒舌になったら注意してやってくれ。いいたいことは仕事で解消しろと」
「もう小説はやめたんだよ」と美樹はいった。
「いまは『ぼっちの帝国』があんたの作品だ。完成させろ」
「ぼくたちの、だろ」とマシュー。
「そうだ」と美樹。「おれたちみんなのだ」
「あたしたちは」とあきら。
 質問の当事者として巻き込まれた明日香は、自分に関係があるとはもちろん思わなかった。それでも美樹がどう答えるか気になった。全員が注視したところで美樹の携帯が振動した。広間に緊張が走った。美樹は通話しながら席を離れ、五分後に戻ってきた。
 だれからとあきらは警戒するように尋ねた。
「美彌子じゃない。あきらの先生だ」
 予期していたかのようにあきらは顔をしかめた。「付き合わないでよ。学校でやりにくくなる」
「きょうのことで挨拶されただけだ」
「また電話が来るたびに相談に乗ってあげるんでしょう。山崎先生のときみたいに。あのときも噂が広まって火消しが大変だったんだから。先生とも気まずくなるし。受験の邪魔だからそういうのほんと勘弁して」
「おれは何もしてない」
「交際を断ったでしょう」
「あきらの担任だったじゃないか。おまけにおれは妻帯者の設定だ」
「そういうところよ」
「あきらが困るようなことはしない。約束する」と美樹は誓った。
「美樹っちにその気がなくても向こうが本気になったらだめなんだからね」
「他人の感じ方はコントロールできない」美樹は本気で当惑しているように見えた。教頭に詰め寄られたときとは別人のようだ。「何のことだか……」
「関わらなきゃいいのよ。狭い教室で顔を突き合わせているからには同級生は無視できない。でも保護者と先生は話さなくても不都合はないでしょう。むしろ仲良しのほうがおかしいよ」
「保護者と学校は連携を……」
「電話に出ないで」
「わかった」小学生に叱られた強面の大男は見るからにしょげた。
 二階で扉が開閉する音がした。足音が階段を降りてくる。全員が驚いて戸口を振り向いた。
 セルフレーム眼鏡の痩せた男が入ってきた。神経質そうな印象は服装のせいだ。白シャツの襟や袖のボタンをきっちり留め、裾を折り目のついたチノパンに入れて、細いベルトを締めて着ている。ガラス革のポストマンシューズを履いていた。まっすぐ部屋を横切って食卓の空いている席に着いた。古代エジプトの王のようにまっすぐな姿勢だった。だれとも視線を合わせなかった。
 それが神崎陸だった。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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