杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第41回: Average Guy

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.07.24

 清高誠一郎と母親はすっかり打ち解け談笑していた。明日香は立ち上がり居間を出た。トイレで吐いた。
 流す音を聞きつけて光丘秀蔵が白いペンを片手に仕事部屋から顔を出し、大丈夫ですかと問うた。答えに詰まった明日香は曖昧に肯いて居間に戻った。体調を気遣われるどころか彼女が席を外したことに母も婚約者も気づかぬ様子だった。
 早い時間に引き上げて外で食事をする予定だった。遅刻したせいもあってずるずると夕食時までいつづけている。遅くなっちゃうと明日香がいうと母も婚約者も興を削がれた態度になった。
 そうだ晩ご飯食べて行きなさいよと母が提案した。せっかくですからご厚意に甘えますと清高誠一郎が答えた。予約を取り消しておいてくれと彼は明日香に命じた。秘書扱いする態度をいさめるどころか母はそうよそうしなさいと尻馬に乗った。まるで自分が当事者であるかのごとくはしゃいでいた。
 明日香のほうがあべこべに彼女の老いた母親であるかのような気分になった。炊事するのは光丘秀蔵だ。急にそんなことをいわれても困るだろうと見やるとチーフアシスタント兼愛人は大丈夫という顔で肯いた。
 明日香は店に予約の電話を入れるのが苦手だった。ましてキャンセルの連絡は気が進まない。
 この頃には清高誠一郎の性格が明らかになりつつあった。何かにつけて指導力を発揮したがり、たとえば美容院の予約日時やカットの仕方など明日香の個人的なことでさえも勝手に決めたり指図したりする。一方で格好をつけるのにこだわるがゆえに体裁の悪い手続は明日香にさせる傾向があった。
 明日香は廊下でキャンセルの電話を入れた。店員は物腰こそ丁寧だったが当然ながら歓迎はされなかった。迷惑をかけた責めを負わされた気分になった。
 居間とカウンターで仕切られた台所で光丘秀蔵は夕食の支度をはじめた。会話に加われぬ明日香は手持ち無沙汰と罪悪感から手伝いを申し出た。
 アパートのアイランドキッチンではソファで寛ぐボッチーズを眺めながら調理ができた。実家のガス台や流しは居間に背を向ける配置だった。十代の多くの時間を過ごした台所に他人と並んで立つのは奇妙な感じがした。しかもいまや自分のほうがよそものなのだ。
 恥ずべき汁物生活を終わらすために明日香は中学時代に料理を学習しようとした。食べた経験のない家庭料理をつくるのは困難を極めた。舌が正解を知らぬのでインターネットのレシピを再現できたか判断がつかない。部活動で調理部に所属しようと考えたりもしたが、生まれながらに家庭の味を知る同級生らの前で恥を晒したくはなかった。
 アシスタントの賄いは一度だけ試みて失敗した。インターネットのレシピはあくまで一般家庭用であって多人数向けではなかった。単純に人数分をかけ算しても食用に値する代物にはならなかった。歳上の若者たちからまずいまずいと難じられ、大量に廃棄するはめになった。改めて用意された意味不明な汁物が歓迎され、母は勝ち誇るような顔をした。
 明日香はそれ以来、週末に自分だけのために炊事をするようになった。侘しく惨めだった。ひとと違うがゆえに要らぬ苦労をせねばならぬ。将来のためだと想って耐えた。
 考えようによってはその努力がアパートでの業務に活かされたことになる。しかし柳沢美彌子の料理のほうが明らかに上手であったことを思えば、負に生まれつけばいかに努力を重ねたところで正には至らぬと思わざるを得ない。いまだって光丘秀蔵を手伝っているのか邪魔しているのかわからぬありさまだ。まあよい、これを機会に料理を教わろうと開き直った。
 清高誠一郎と母は明日香を肴に盛り上がっている。寝小便や滑稽ないいまちがいといった幼少期の失敗が母によって語られた。清高誠一郎もお返しに直近の恥ずかしい出来事を誇張して披露した。ふたりは和やかに声を上げて笑った。気が合うようだった。
 これまでにも本名を打ち明けた相手や母に逢わせようとした相手はいた。いずれもすぐに連絡がとれなくなった。顔合わせの成功を喜ぶべきだとわかってはいた。しかし肚の底にどす黒い感情が渦巻くのは止められなかった。光丘秀蔵が気遣うような視線を向けてきた。明日香は気づかぬふりをした。秀蔵に対しても自分自身に対しても。そうでなければ泣いてしまう。
 非常識な彼氏でごめんなさいと明日香は光丘秀蔵に謝った。視線を合わせる勇気はなかった。社会常識の象徴として愛したはずの男をそのように位置づける矛盾は自覚しなかった。
 お母さんの望んだことですからと光丘秀蔵は微笑んだ。「彼女があんなに愉しそうにしているのは久しぶりです。親孝行をしましたね」
 これを乗り越えなきゃ結婚できないから、と明日香は手を動かしながら思った。口には出さなかった。
「そろそろご自分のことを優先してもいいかもしれませんよ。お母さんにはぼくがついていますから」
「自分のこと?」
「お母さんは独自の道筋で物事を捉え、考える。ぼくにはない発想なので接していると世界が広がります。でも一般的には混乱させられるばかりでしょうし、世界に適応して生きていくことを学ばねばならぬ子供ならなおさらです。あなたがご苦労されたことは推察できます」
 明日香は顔を上げて光丘秀蔵を凝視した。母の愛人がそんなことを口にするとは意外だった。盲目的に礼賛するか、もしくは打算的に利用しているとばかり思っていた。欠点を理解した上で愛している、そう彼は語っているのだ。
「本当にあの方との結婚を望んでいるのですか」と光丘秀蔵はいった。彼は変わらず爽やかな微笑をたたえてはいたが冗談をいっている目つきではなかった。
 そうよと明日香はむきになって答えた。「あなたの友だちみたいなわけのわからない連中にはうんざり。落ち着きたいの。社会的にちゃんとしたい」
「社会的にちゃんとするってどういうことですか」
「世間で正しいとされる人生を生きること。ひとが当たり前にやっているように生きること。自力ではどうにもならなかった。まるで生まれながらに借金を負わされて、働けば働くほど利子が膨らむような感じ。正しい側に認められなければならない。結婚も出産も労働もそのための手段でしょ。だれだって当たり前にやってるんだから」
 あなたにはわからないかもしれないけど、とつづく言葉を明日香は呑み込んだ。怒りの矛先を彼へすり替えていた。反抗的な口調になっている自覚はなかった。
「ぼくはお母さんの健康と幸福のために心を砕いています。ハウスハズバンドはこの国では女性の主婦以上に社会的地位を認められていません。世間一般でいえばヒモです。ぼくは恥ずかしい人間でしょうか」
「あなたのことなんていってない。関心もない。あたしの生き方よ」
「それが本当にさんの生き方なら、もちろん口出しはしません。……さあ、できましたよ。温かいうちに食べてもらいましょう」
 夕食を終えて帰途についた。車中で清高誠一郎は明日香の母を賞賛し、光丘秀蔵を批判した。
「お母さんは愉しい女性だね。それに引き替えあの男はなんなの」
「なんなのって……」
「チーフアシスタントだっけ? それってケータリングもやる仕事なの」
「母は料理する暇もないから」
「男が夕食の支度をするなんて。お父さんが出て行ってからずっとそんな風に育ってきたのか」
 今夜は特別だと明日香は嘘をついた。愛人だと正直に打ち明けたらどんな態度をされるだろう。求婚を受け入れるのにあれだけ躊躇していながら、ひとたび指輪を左薬指に通してしまうと破棄を畏れた。身分不相応な指輪に執着はないし、インターネットで検索して得た知識によれば返却の義務もないらしいが、社会にとって不要な人間だと確定するかのように思われて怖ろしかった。
「ぼくはきみにまっとうな家庭を教えてあげたい。ぼくたちの家庭はあんなふうにはしない」
 進路を見据える清高誠一郎の目は輝いていた。彼もまた世間の求める「普通」を目指して邁進しようとしているのだ。夢と希望に燃えているように見え、荒い鼻息さえ感じられるかのような気がした。午後の美術室で画布に向かう後ろ姿を彷彿とさせた。
 当時の「先輩」の中にも二十九歳の彼はいて、同様にいまの彼の中にも十代の少年が息づいているのだと改めて気づかされた。まったくの他人に成り果てたわけではない。彼は最初からずっとそこにいて、こちらの見る目が変わっただけなのだ。
 その変化が成長なのだとしたら当時は何を見ていたのか。
 ええそうね、とだけ明日香は答えた。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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