杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第50回: Anywhere I Lay My Head

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.09.03

 公教育であり、かつひとりで数十人を担当する以上、教師は中程度の理解力に合わせて授業をする。逸脱した生徒は必然的に疎外される。理解の道筋や速度はひとそれぞれだ。独特であったり遅かったりすれば落伍せざるを得ない。田辺美樹の蔵書で育ったあきらにとって小学校の授業は幼稚すぎた。貴重な勉強時間を奪われるのに加え、いまや執拗な厭がらせを受けるだけの場となった。
 通いつづけたのは内申点のためである。不登校のレッテルを貼られれば進学に不利になる。男子の腕力も女子の陰口も煩わしいが無視すればどうということもなかろうと考えた。甘かった。人間、知的な批判よりも幼稚な暴力こそがこたえるものである。多少なりとも知能があればやるはずがなく、もし仮にやったとしてもすぐに飽きるだろう幼稚な厭がらせを、心からおもしろがって執拗にくり返される。そんなことに影響を受け、同次元にまで貶められる。それが苦痛なのである。
 加害者は他者に力を及ぼすのを愉しむ。本来は恥であるはずの幼稚さを、あたかも価値のあるものであるかのように感じられるからだ。異なる者の存在は彼らを脅かす。己をいつまでも甘やかしていられるよう、だれもが同じように劣っていなければ許さない。それで彼らは他者を引きずり落とす。匿名ソーシャルメディアがこの国で人気なのはそうした営みに適しているがゆえだ。
 登校したところで内申点が変わらぬとはさすがのあきらも考えが及ばなかった。女子でありながら複数の男子に暴力をふるったこと、田辺美樹と家族であるかのようにふるまったことで彼女の評価は決定していた。憲法に保証された人権と、実社会での運用が別問題であることを知らなかった。
 あきらが抗わぬことで厭がらせはエスカレートした。机や下駄箱にゴミを詰め込まれた。上靴や体操着を隠された。授業中に背後のどこからか消しゴムの破片をぶつけられた。振り向くと担任に注意された。女子からは聞こえよがしに厭味や悪口をいわれた。班をつくる授業では必ずあぶれ、嘲笑された。あきらが近づくとそれまで愉しげに話していた女子らは不興げに散った。
 担任までもが授業中に尻馬に乗るような冗談を口にした。あきらを除くほぼ全員が笑い、担任は教職について初めて生徒の信頼と支持を勝ち得たのを感じた。なぜこれまで悩んでいたのかと目を開かれる思いだった。簡単なことだった。仕事が楽しくなった。指導案の作成にも興が乗った。このところ活き活きしてるわね、肌の色艶もいいし、恋でもしたのと同僚の女性教師に問われた。
 ほぼ全員、と書いたのは笑わぬ生徒がほかにも一名いたからである。浮かれた担任は窓際最前席の男子が仏頂面をしているのに気づかなかった。教室中があきらを憎むようになる以前、金舟泰造がナベミキの過去を暴き立てるよりもずっと前から、ことあるごとにあきらにつらく当たっていた男子だった。
 彼はいまでもあきらを嫌っていた。お高くとまって女のくせに生意気だと思っていた。岬愛子を巡る乱闘事件で、最初にあきらを中傷したのも彼である。しかしそのときもその後も、仲間内の乗りに流されたことは一度もなかった。女に腕力をふるうのは卑怯だと信じていた。友人を興ざめさせるのを畏れて制止こそしなかったものの、そのことを恥じていた。男らしくないと感じていた。
 乱闘事件でも今回でも弁解ひとつせぬ彼女のほうがむしろ男らしいではないか。彼は引け目を感じた。思えばあの乱闘ぶりは敵ながらあっぱれだった。自分はといえば加勢も制止もできずに立ち尽くすしかなかった。いまだって友人が机にゴミを詰めたり、消しゴムを投げたりするのを見ていながら何もいえない。
 確かにあきらは厭な奴だ。しかし噂ではナベミキは父親でも何でもないというではないか。赤の他人のそのまた父親の犯罪歴で虐められるなんて、いくら何でも理屈に合わない。喩えていうなら親戚の知り合いの隣家の男が一度話したことのある他人、くらいの近しさではないか。あきらもあきらだ。潔白ならいい返せばいいのに。あれだけ弁が立ち、岬愛子のために戦った彼女がどうしたというのか。
 級友たちが厭がらせをし、担任がからかい、あきらが無言で耐えるのを目にし耳にするたびに男子は苛立った。あきらにも自分にも腹を立てた。そしてある日。担任がもはや恒例となった誹謗中傷を口にし、教室が笑いに包まれたその瞬間、欲求不満がついに臨界へ達した。
 彼は衝動的に机を蹴り倒した。
 机は派手な音を立てて倒れた。担任は驚いて飛びのいた。教科書やノートや筆入れが散乱した。教室が静まりかえり、視線がその男子に集中した。彼は頭が真っ白になり、立ち上がって教室を飛び出した。茫然とした担任が我を取り戻すより先に、あきらがすぐさまあとを追った。
 自分のしでかしたことに衝撃を受けた男子は校門を駆け抜けた。途中で教師のだれかに呼び止められたような気がしたが立ち止まらなかった。人生に対して取り返しのつかぬことをしたと思った。息が切れるまで走り、そこから先は歩いた。荒い息が背後に近づいた。
 振り向いた。あきらだった。同様に息を切らしていた。
 ふたりは距離を保ったまま口を利かずに歩いた。階段を降り、大学の野球場前を通過して大瀬川の土手に出た。男子は斜面に腰を下ろし、川の流れを見つめて息を整えようとした。離れた場所にあきらが座った。
「なんでついてくんだよ」絞り出すように彼はいった。
「そっちこそなんであたしより先に走るのよ」
 ふたりは同時に噴き出した。
 男子の父親はかつて建築会社に勤めていた。数年前に収賄の疑いをかけられた。やがて無実が判明したが父親は転職を、息子は転校を強いられた。男子は父親を陥れた大人たちを憎んでいた。父親に対しては、不正を働く人間ではないと最初からわかっていたが、責任を押しつけられる要領の悪さは嫌っていた。おまえらみんなが連中に重なって見えたと男子は打ち明けた。おまえも先生もみんなも。
「なんで怒らないんだよ。自分は関係ないといえよ」
「関係あるよ。確かに本物のお父さんではないけど」
「だからって巻き添え喰らうことはないだろ」
「あんたにいわれる筋合いはないね」
「戻ったらなんていわれるか」
「口笛を吹かれるかもしれないね。いっそほんとに付き合おうか」
「ばか。ふざけんな。そうやって自分を貶めるから、つけあがられるんだろ」
「別にいいよ。あんたが味方してくれたから」
 な、なんだよそれといって男子は顔を背けた。紅潮したのを見られたくなかった。
 その頃、ボッチーズのふたりは上京しヤンパチの知人の自宅を訪ねていた。職探しが目的だが警察の事情聴取やマスコミから逃れるためでもあった。無職となったいまでは宿泊費も惜しい。泊めてもらえる心当たりがそこしかなかったのだ。
 高所得者が住むとされる静かな住宅街の豪邸で、三十手前の美青年が彼らを出迎えた。ひさしぶりですね、お元気そうで何よりですと青年はヤンパチに挨拶し、どうぞ上がってくださいと促した。広い玄関に一歩踏み入れただけでテレピン油が匂った。
 マシューはじとっとした目でヤンパチを盗み見た。
「考えてることはわかるが彼じゃない。父親のほうだ」
 初老の大柄な男が奥のアトリエから現れた。絵の具の汚れだらけのスウェットにジーンズ、熊のようなひげ。彼が自分ほどではないが肥っているのにマシューは驚いた。もっと燻し銀とかロマンス・グレイといった言葉が似合う洗練された男性を想像していた。
「よく来たね。もう逢えないと思っていたよ」
「勘違いしないでくれ。電話で説明したろ」
「もちろんだ。友人として歓迎する。好きなだけ滞在してくれ。仕事の邪魔さえしなければね」
「もうあの頃のおれじゃない」
「息子の前でこれですからね。ほんと、まいっちゃいますよ」青年は屈託なく笑ってみせ、居酒屋を数店経営しているといってマシューと名刺交換した。河元さんに逢えると聞いて遊びに来たんですと彼は話し、母親と大学生の妹は遠い街に別居して暮らしていると説明した。
 彼が腕をふるった夕食を四人で囲んだ。ひさしぶりの手料理にマシューは感激し、光丘たえや権田原明日香を懐かしみ、騒ぎが落ち着いたら名刺の店へ飲みに行こうと心に誓った。和やかに話すうちに画家父子がマシューとヤンパチとの仲を誤解していることが判明した。マシューが血相を変えて否定した。ヤンパチは見るからにげんなりした。ふたりの尊厳を傷つけたのを画家父子は知り、謝罪した。
 お父さんと河元君との仲を受け入れたのは凄いねとマシューが感想を述べた。
「そりゃ最初は混乱しましたよ。ふたりにひどい言葉を投げつけたこともある。奇妙な話ですが、相手が女だったらいまでも許せなかったかもしれません。家庭が崩壊したのは事実ですからね。妹は父のこともぼくのこともいまだに恨んでいるようです。母がどう考えているかはわかりません。ようやく慣れて、兄貴ができたような気がしはじめた頃にこのひとたちは破局したんです。腹が立ちました」
 よりを戻すつもりはないのとマシューが問い、長男も期待するような目をヤンパチへ向けた。ふざけんなとヤンパチは即座に否定した。
「喰い気味だったよね、いま」
「喰い気味でしたね」
「うるせえ」ヤンパチは顔を赤らめ、長男とマシューに冷やかされた。画家は困惑したように笑った。
 来客用の寝室をあてがわれた。ベッドがふたつ用意されていた。部屋は掃除が行き届いていてシーツは糊がきいていた。さすが金持は違うとマシューは感心した。来客用寝室なんて彼らのアパートにさえなかった。
「もとは娘さんの部屋だったんだよ。……おい、だからって変な想像はするなよ」
「失敬な。中学生じゃあるまいし」
 ふたりはベッドに横になり、求人情報誌やスマホの求人サイトを眺めた。
「冗談抜きで油田行きになっちまったな」とヤンパチがいった。
「六年間あっという間だったね」
「愉しかったな。やらずに後悔するよりよかった」
「たえさんのおかげだよ。あのとき、ぼくらの背中を押してくれた」
 ふたりは照明を消して眠ろうと努めた。さまざまな考えが巡って眠れなかった。田辺美樹が事業の清算をどうするのかという不安もそのひとつだった。
 この業界から足を洗うつもりだとヤンパチは打ち明けた。どこかの住み込みの工場にでも行こうかと考えている、と。だったらこっちに戻ってきた意味ないじゃんとマシューはいい、そうだなとヤンパチは気のない返事で応じた。マシューは元の職場に戻れないか打診してみるといった。だめならコンビニやコールセンターのバイトでいいや、ともいった。人生でやりたいことはもうやってしまったし、田辺君もいなくなった。あとは無理せずのんびり生きるよといった。
 ヤンパチは寝息で答え、マシューも目を閉じた。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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