杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第18回: 別の味

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.05.02

 カレー作戦が功を奏して田辺美樹も朝晩、食卓に着くようになった。あきらを含めこれで食事を拒絶するのはまだ見ぬ神崎陸のみとなった。建物から一歩も出ず食事さえ摂らぬからにはやはり亡霊なのかもしれない。食後にコーヒーを出してやるとこれも陸を除く全員に売れた。
 マシューは豆乳と砂糖をたっぷり加えるのが好みで、おかげで二十円の追加料金をもらえた。さらに搾りとる余地はありそうだ。美樹とヤンパチはブラック党。あきらは体重など気にする歳でもなかろうに人工甘味料を少量加えた。美樹は初日にぼられたことに気づいてすらいないようだ。彼だけ余計に支払わせることもできたろうが、ほかの住民や上司でもあるあきらの手前、差し控えた。
 男たちはマグカップを片手に一日の成果や明日の予定を議論した。あきらはノートや教科書をひろげて予習なり復習なりをした。あの騒々しさでよく勉強できるものだと明日香は感心した。テーブルの声を聞きながら洗い物や翌日の仕込みをするのは愉しかった。ボッチーズの会話は専門用語だらけでまるで理解できない。にもかかわらず疎外感はなかった。むしろ何かに帰属するような心安らぐ感覚があった。
 最後の皿を籠に伏せて顔を上げるとあきらと視線が合った。食事もコーヒーも十一歳の上司からは金をとっていない。二杯目もサービスするつもりでお代わりかと訊いた。よく考えればカフェインは発育に有害なのだがあきらを一般の子供と同様に見なすのは難しかった。眠れなくなるから、とあきらはなぜか慌てたように首を振り、視線をそらした。
 水曜の日中にタマミからソーシャルメディアで明晩の予定を訊かれた。仕事だと正直に答えても理解されまいし説明も面倒だ。普段どおりである旨を曖昧に返信するや電話がかかってきた。明日香がこっちにいると報せたら高校時代の仲間が集まることになった、どこそこの居酒屋をあさって十八時で予約したという。
 十代の頃には穏やかな微笑を感じさせた声は単にニヤついているように聞こえた。都合も聞かずに勝手に決めるほど強引な女だったろうかと狼狽した。こちらが美化したのか向こうが変わったのか。
 まったく気が進まないが口実も思いつかず断るのも面倒だった。ソーシャルメディアのグループにまで招待され拒めなかった。だれがだれやらわからぬアイコンが四六時中、明日香には理解不能な会話を交わしていた。仲がいいのはわかるがほかにやることはないのか。割烹着のポケットで着信音が鳴るたびに苛立った。十年ぶりに逢うのが待ちきれないと複数のアイコンからお愛想をいわれたが、適切な返事が思いつかなかった。飲み会の席で誹られるのを知りつつ放置した。
 こういう煩わしさからは卒業と同時に解放されたつもりでいた。社会に出て成人してからも嬉々として相互監視や馴れ合いを続ける心境がわからない。
 昭和初期の建物は広いばかりか手のかかる箇所が多く、効率よく掃除するコツはなかなか見いだせない。どうしてもやっておきたい箇所だけに妥協して二日分の時間を確保した。翌日は割烹着を脱ぎ、ZARAやユニクロをはしごして高校時代の遺物よりはましな服を調達した。後ろ指を指されたくないので化粧品もドラッグストアで調達した。使い方を指南する動画を寝床で視聴した。
 もっとうまい儲け口はないものかと悩みながら当日は早めに夕食を支度した。いくら苦労してちまちま稼いでも望まぬ社交であっという間に消える。汗だくになるほど走ってカロリーを消費しても菓子パン一個で帳消しになるのに似ていると明日香は思った。
 出かける旨は朝食時に住民らにあらかじめ告げておいた。愉しんできなとヤンパチがいった。せっかくだからきょうはお休みにしたらとマシューが提案した。稼ぎたいから休んでる暇はないと明日香は答えた。彼らの気遣いが嬉しかった。見慣れぬ女がいなければ部屋から出てくるかもしれんと美樹がいうので、野生動物かよと思いながら神崎陸の分も食事を用意してやった。
 動画で学習した内容を可能なかぎり顔面に再現し、玄関で室内用の運動靴からABCマートの値札をはずしたばかりの靴に履き替えているとあきらが現れた。何かいいたげだ。
 まさか見送りのつもりではなかろうが珍しかった。どうしたのと問うとそのうちクッキーを焼いてくれとせがまれた。お祖母ちゃんが食後によく出してくれたからと。世慣れた態度ばかり見せてきた生意気な女児がその台詞。あの視線は祖母を重ねていたのかと気づいて抱き締めたくなった。相手は仮にも上司。厭がられるのは明白なので踏みとどまった。あきらのことだ、あとで恥ずかしくなって悔やむのではないか。
 移り住んで二週間と経たぬのに母親めいた心境になるとは奇妙なものだ。ボッチーズでさえ産み育てた息子たちのように感じられる。腹を満たしてやり、洗ったものを着せてやり、清めた部屋で暮らさせてやるのにこんなにも充実した愉しみが見いだせるとは。母に同じことをしていた時期には思いもよらなかった。
 出かけるのがますます億劫になった。後ろ髪を引かれる思いとはこのことか。旧友たちには失礼にならぬ程度に挨拶してさっさと切り上げようと心に誓った。
 察するに卒業後も仲間の交流は続いているようだ。大人になれば暮らしも関心も変わる。いかに大切な記憶でも現在の人生からは遠く感じられた。タマミのひと声で仲間が集まるのは理解できたが、出て行った人間がいまさら肴にされるのは違和感がある。あの含み笑いも気になった。
 忘れられて当然なのに声をかけてもらった。感謝し喜ぶのが筋だ。青春をともに過ごした仲間と逢うのになぜこんなに足が重いのか。失礼な話じゃないか。実際に顔を合わせれば話が弾み、来てよかったと思うはずだ。きっとそうに違いないと自分にいい聞かせた。
 ナビアプリで居酒屋を探り当て、藤田の名前で予約したと店員に告げて奥へ通された。現在の苗字を知らないことに気づいたが高校時代の仲間にはそのほうが通りがいいので旧姓を使ったようだ。座敷には懐かしい顔と正直よく思い出せない顔が並んでいた。歓声が上がって注視された。予想よりも大勢いた。全員が冷やかすような顔つきをしていた。理由はすぐにわかった。キヨタカ先輩がいた。
 かつての美少年は当然ながら大人の顔になっていた。タマミの言葉が脳裏をよぎる。いまでもかっこいい、どころではない。白黒の世界でそこだけ色がついているようなものだ。恥ずかしくて視線をそらした。周囲が隣に座らせようと画策しているのは感じたがあえて鈍感を装い、離れた席に着いた。タマミの隣だ。
 呆れた、という顔をタマミにされた。別に頼んでない、余計なことをしないでと小声で耳打ちした。わざとらしく無視された。高校時代にはこんなことをおもしろがる女ではなかったはずだ。結婚と出産、育児が親友を変えたように明日香は感じた。
 狭い対人関係だけが世界のすべてになると周囲の男女を掛け合わせることだけを考えるようになる。そうでなければ家族を選んだ人生が否定されるからだ。そんな哀しい女はこれまでに幾人も見てきたがまさか親友がそうなるとは。衝撃だった。情けなかった。
 明日香は旧友らに求められるがままに現在の暮らしぶりを打ち明けた。理解されるとは思わなかったが半端仕事を転々としてきた過去を話すよりは気が楽だった。案の定、笑われた。なあんだ、結局あんたも家庭的な女アピールしてんじゃん。男にご飯つくったり掃除や洗濯をしてあげたりして充実しちゃってるんだ。昔は肩肘張ってたよね、専業主婦に憧れる子をばかにしたりさ。だったらそんな仕事辞めてさっさと結婚しちゃえばいいのに。独りなんでしょう。寂しくないの。
 専業主婦じゃお金もらえないでしょうと反論するとさらに笑われた。いい歳して何を初心うぶなこといってんのよ。夫なんてATMよATM、子育て資金のとだれかがいった。大して引き出せないけどねと囃し立てる声や、勘弁してくれよと嘆く声が騒々しく加わる。愛されるんだからお金なんてどうでもいいじゃないとまた別の声。夫に尽くして愛されるのが女の幸せ、と芝居がかった口調でだれかがいい、別のだれかがよくいうわと爆笑した。
 そうじゃなくてお給料がほしいのよ、労働の対価が。自力で稼ぐのが好きなのよと抗弁したが騒ぎに掻き消されてだれにも聞き入れられなかった。
 地獄のような騒ぎだった。高校時代は未成年だったという当然の事実に明日香は思い至った。当時は集まる店はせいぜいが商店街のファミレスやカラオケ屋やお好み焼き屋で、一部に例外の不良はいたろうが、仲間の多くはドリンクバーの独創的なカクテルよりも強いものを飲まなかった。
 ひとり静かに座っているのがキヨタカ先輩だった。少しも酔い乱れず居心地悪そうにしている。そういうシャイなところは高校時代と少しも変わらなかった。かつての友人らが、ただでさえ歳相応に崩れて見えるのに酒臭い息を吐きながら下品な声で騒ぐのとは対照的だった。座敷の人口密度は高く、押されて避けて、をくり返すうちに自然とふたりは近づいた。あたかも似た性質をもつ物質が互いに引き合うかのようだった。
 先輩にとって自分がいかなる位置づけであったのかは皆目見当もつかぬが、同じ部室で放課後の多くを過ごした仲ではある。互いにいまだ独身と知って向こうも意識をしているかに見えた。集まった仲間の多くは既婚者だったのである。実家に戻っているのと先輩に訊かれて明日香は言葉を濁した。隠すつもりはなかったが、住み込みで働いている事実はいいだしそびれた。
 明日香は自意識過剰にならざるを得なかった。いかなる種類かは予断を許さぬにせよ、何らかの関心を持たれているのは明白であるかに思われた。控えめにいって「いい雰囲気」だった。ここが地獄でなければの話である。場所を変えよう、抜けだそうとどちらかが提案しそうな雲行きさえ感じた。しかし勤めはじめて早々に朝帰りというわけにもゆかぬ。下着もユニクロの安物である。下着の次に思い浮かべるのも失礼ではあるが、あきらの顔も脳裏をよぎる。夕食の後片付けも気になった。
 急いては事をし損じるともいう。安い女に見られたくない。しおらしく連絡先の交換に留め、先輩を残して足早に店を出た。それ以上、至近距離にいては鼻血が出そうだった。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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