杜 昌彦

ぼっちの帝国

連載第1回: 女に歯向かわない職業

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, 投稿日時: 2019.02.18

 世間にすべてを求める女は往々にして世間からも求められるもので、そのような母を見て育った明日香は、彼女のように生きられたらどんなにか楽だったろうといつも思う。しかし同時にああはなりたくないとも考え、すべての発端はそこにあったかもしれないとのちに回想した。
 そのときは意識しなかったが、無職の暇にあかせて思い返してみればくだんのSVは母をどこか連想させた。キャバ嬢めいた服装も化粧も髪型も、フロアに入ってきただけでそれとわかる安香水も苦手だった。見目のいい男子学生を贔屓し、会議ばかりで滅多に顔を出さない上司には媚び、母親より歳上の女には辛辣に当たるその態度もたしかに我慢がならなかった。社会が若い女につけた値札に過剰な自信を持ち、武器のように振りかざすタイプに思えた。しかしだからといって暴力に訴えるほど明日香は愚かではない。なのにどうしてあんなことになったのかいくら考えてもわからなかった。
 数週間前ならしょぼくれた中年男が、頼りない薄笑いを浮かべて割って入り、どうにか相手を取りなしてくれたろう。オペレーターの挙手を受けても満足な回答を返せないそのSVは、いつ見ても明らかに仕事らしい仕事もせずに暇そうにしていた。正社員の男性上司からはその歳でそんなこともできぬのかと叱責され、女たちには生理的嫌悪感からなおさら疎まれながらも、馬耳東風、まるでこたえていないかに見えたが、一年半ほどお荷物扱いされたのちフロアから唐突に姿を消した。
 無能で卑屈なそのおっさんSVを明日香も当然、見下していた。四十過ぎて独身でコールセンターの現場管理さえ満足にこなせず、次の職場が見つかるとも思えないあの手の輩はどこから来てどこへ行くのだろう。そんな愚にもつかぬことを考えるばかりで、何ひとつ前向きな行動に移さぬまま現状に甘んじたがために、自分もこの境遇に陥ったのだから明日香も人ごとではない。
 家政短大のデザイン学科を出てすぐに採用された小さなネット通販会社は外資に吸収され、人員整理であえなく解雇された。それから風に吹かれるがごとく、派遣で紹介されるがままに去年はあちら、今年はこちらと転々とするうち若い子扱いされなくなり、同級生はみな名を成し管理職となり母親となり、いつしか同窓会にも呼ばれなくなった。吹き溜まりのような職場でヘッドセットをつける頃にはほかに行き場もなくなっていた。
 キャバ嬢SVに目をつけられた理由は思い当たらない。しいていえば自分の不幸な数年後を見せられるようで不快だったのかもしれない。明日香にしても数年前は、化粧や髪型や服装はさておき態度はあんな風だったかもしれないし、同族ゆえ互いに嫌悪したのかもしれない。何かにつけて厭味をいわれるようになり、厄介な架電をやらされるようになり、気がつけば名目上のリーダーに任命されていた。昇進ではないから研修など受けていない。ただの雑用係で時給も契約も変わらない。若いSVたちは母親世代にはものをいえないし若い子らは味方につけたい。扱いに困る中途半端な歳上を都合よく利用しようという魂胆だった。
 厭だ厭だと思いながら日々をやり過ごすうち、慣れとは恐ろしいもので適応し転職する気力も失せた。扱いの理不尽を受け入れてしまえばこれほど緩い職場もない。女たちは概ね助け合って和気藹々とやっている。なかには席を隣にするなと苦情を訴えるほど仲の悪いのもいるが明日香には関わりのないことだ。このまま契約更新まで居続けることになるのだろうと思いはじめた矢先だった。
 なにせ女子学生はコミュニケーション能力が高いから医学部に合格させない、などとさも筋の通った理屈であるかのように平然と語られるお国柄だ。どうしてこんな有能な人材が、という女性を明日香はこの職場で幾人も目にした。流浪の人生のきっかけとなった人員整理でも明らかに自分より劣る男が社に残った。理不尽なクレーム客は例外なく女を侮り、どんなに質の高い応対をされようが不満を表明し、教育してやってるんだという態度で恫喝する。年配の男性ならまだしも女性客までもがそのような態度をとった。
 ところがひとたび上司を名乗る中年男性に代わるや、そいつがいかに無能でも客たちは態度を翻す。だから喰わせてもらえてるんです、世の差別のおかげでねとおっさんSVは寂しげに笑ったものだ。
 以前は架電にせよクレームにせよ厄介な対応は彼が引き受けていた。暇そうにぶらぶら歩いてきたかと思うとヘッドセットを取り上げ、代わって話し出したものだ。娘ほどの世代のSVたちはそのたびに迷惑そうに陰口をきいた。遊んでんじゃねえよとの声もしばしば聞こえた。彼が辞めたあとSVたちはクレーム対応をいっさいしなかった。オペレーターは対応を自己完結できなければならない、管理者に頼るとは何事かと毎朝の周知で説教された。管理される側の女たちは生活に疲れた目で聞き流していた。
 電話が鳴らない時期にはファッションや他部署の男やタレントについて私語ばかりしている連中にそんなことをいわれてもなぁ、というのが明日香の正直な感想だった。
 明日香はその午後、あとで叱責されたり厭味をいわれたりするのを承知で、涙目の女子学生バイトから電話を代わってやった。大人の男からそのような口をきかれたのは生まれて初めてだったのだろう、学生はショックで慄えながらも健気に対応を続けようとしていた。どんないけめんもひと皮むけば同じだよ、いつかあなたも思い知るよと考えながら、それとは裏腹の優しい言葉をかけてやり、ヘッドセットをつけて席を借りた。そうして二時間にも及ぶ理不尽ないいがかりに孤立無援で立ち向かった。
 団塊世代の老人から火炎瓶さながらの罵声を浴び続け、やっとのことで終話に導いたその直後だった。キャバ嬢が目を釣り上げて小走りに近づいた。対応がまずいと思うならどうして終わるまで放置したのか明日香には理解できなかった。そもそも自分が代わればよかったのに。敬語がどうの応対品質がどうの、あのくだりはこう案内すべきだった、時間をかけすぎだ、ほかの客をどれだけ待たせるつもりか、だのと頭上から説教されたまでは憶えている。次の瞬間にはたがいに胸倉を掴んで叫び合っていた。
 裸同然の女たちが格闘する興行があるのは知っていた。競技ではなくそういうものを見て興奮する男性向けの商売ということだ。けれどもそれはあくまで自分とは関わりのない知識にすぎず実演するつもりはなかった。よもや保守的にして温厚な自分があろうことかあの狭い職場で、普段は何事にも動じないオペレーターたちの視線を浴びながら、応対の妨げになるのも客に聞かれるのも構わず、たがいに奇声を発して掴み合い、馬乗りになったりなられたりして転げまわろうとは思いもよらなかった。
 そのまま平然と机間巡視や挙手対応などできるわけがない。ジーンズを脱がされこそしなかったもののブラウスは裂けボタンは飛び、引きむしられた髪はぐしゃぐしゃで、お気に入りのピアスは左がなくなっていた。化粧をする習慣があればもっとひどい有様になっていたろう。書類仕事は午前中に片づけていた。同僚に泣きついて慰められているキャバ嬢を尻目に、早退します、といい棄ててフロアを出た。
 背後にSVたちの連帯するかのような憎しみのまなざしを感じた。ばからしいと思った。若い女はどうして皆一様にああなのか。あのおっさんSVもまたあの侮蔑を背にこの職場を出て行ったのだ。自分もつい最近まであの一員であった事実がおぞましかった。電子錠のついたドアをいくつか抜けて業務フロアを出ると休憩室のゴミ箱にIDカードを棄ててエレベーターへ向かった。
 男性上司がすれ違いざまにまじまじと明日香を見た。中指を立ててやる気力は明日香にはなかった。
 母親のような年齢のオペレーターたちにどう思われたかはわからない。知りたくもなかった。コールセンターに伝説を残したのだけは確かだ。入れ替わりの激しい職場で数世代にわたって語り継がれよう。そんな偉人にはなりたくなかった。人生とはままならぬものだ。
 春とはいえまだ肌寒い季節でコートを着てきたので助かった。会社のビルを出た。一度も振り返らずに歩きながら派遣会社に電話した。学生ならそのまま無断欠勤を続けて辞めるのだろうが、あいにく明日香は三十路間近だ。担当者に冷静に事態を説明した。さすがに暴力については明言しなかったが語勢で悟られたようだ。派遣先と話をつけてくれるという。
 担当者は明らかに電話を切りたがっていた。明日香は息を吸い込み、次の仕事を紹介してほしいと告げた。相手の声が躊躇するのが伝わってきた。いずれ時間をとるので話し合いましょうといわれた。もう近くまで来ています、いまならこっちも好都合ですと答えた。
 そうして派遣会社のビルを見上げた。ガラスに反射した陽光が眩しかった。


(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的な作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『逆さの月』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。最新恋愛小説『ぼっちの帝国』連載中。
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