吉田篤弘の小説の中では 『おるもすと』 がいちばん好き、 と言うと、 吉田作品ファンの方にはちょっと変わっていると思われるかもしれない。 何しろこの作品、 物語がはじまっていくようなおわっていくような感じでふわっとして、 結局どこにも着地しない。 吉田作品にはそういう傾向はあると思うけれど、 これは特にそうだ。
おるもすと= almost
意味を検索すればいちばんに 「ほとんど」 と出てくる。 ほとんど終わってしまったような、 ほとんど何も起きていないような、 それでいて何か 「おるもすと」 としか言い様のない空気の塊のようなものがそこにある。
主人公は祖父の残した古い家に住んで、 祖父のしていたのと同じ石炭の仕事を一日おきにしている。 職場ではこうもりと呼ばれている。 家は崖の上にある。 崖の下には墓地が広がり、 主人公は墓のひとつひとつを数えている。 謎のパン屋のパンを三日かけて食べ、 休日には新聞を拾って読む。 祖父は物語の始まる少し前に亡くなっている。 祖父と主人公の住んでいた家はかなり傷んでいて倒壊の危険がある。 主人公がその家の解体に同意する書類に判をしたところで、 物語は唐突にとぎれる。
あらすじをまとめてしまうと味気も素気もなくなってしまう。 けれどこの物語の一行一行が私には愛おしい。 ひとり暮らす主人公の淡々とした日々。 すべて終わってしまった後のような諦念も、 これから何かがはじまりそうな予感も、 ただすべてが淡い。 その淡さを私はよく知っているような気がするのだけれど、 それが何かは分からない。 好ましいような懐かしいような、 少し悲しいような静かな気持ちになる。
この物語は著者の吉田篤弘さんにとっても特別なものだったようだ。 吉田さんはこの物語の続きを書こうとして十二年間もテキストを持ち歩きながら、 ついに完成しなかったという。 書こうとした続きには、 他の吉田作品の一部になったものもあるそうだ。
でも私には、 この物語はこのままであるのがいいように思える。 この単行本を出した講談社の方も言っていたそうだが、 この物語はこれできちんと終わっていると思う。 そして、 これ以上何を加えても削ってもこの空気が壊れてしまうような、 絶妙なバランスを保っている。 吉田さんがどうしても続きを書けなかったのも、 そういうことなのではないだろうか。
未完成のようでいて絶妙に完成している、 その不安定でいて揺るぎない感じこそが、 私がこの物語に牽かれるいちばんの理由かもしれない。