いま日本で起きつつあることが書かれていて、 読みすすめるのがつらかった。 目が見えない娘がひとりで出歩けるように街の模型を制作する父親が登場します。 そのための測量をしていた姿を隣人に通報されて彼は逮捕されます。 法律は助けてくれません。 わたしたち日本人はいまそのような社会へ向けて踏み出しました。 悪人を排除し社会を守るよい変化だと信じて。
すでに警察がとある創作者に 「話をした」 という事例が報じられています。 性犯罪を促す作品だったという理由です。 性暴力を礼賛する作品を世に出す側や、 消費者に届ける手助けをする側、 それをよいものとして受容する消費者は、 人間性を疑われてもおかしくありません。 しかしそれと権力が口出しをすることは別です。 いまこの時点ではまだそのような悪質な出版の話であり、 わたしやあなたが日常で行っている publish (ツイートも含まれます) には関わりがないかに見えます。 しかし物事は必ずひとびとの同意を得られやすいところからはじまります。
わたしたち人間はひとりひとり違います。 生まれながらに別々ですし、 生きていれば異なる経験をします。 いわばそのひとだけの事情に生きていて、 他人からは 「わかりにくい」 のです。 「わかりにくい」 相手を知って理解しようと努めるのがコミュニケーションです。 出版や読書もそのひとつのかたちです。 「わかりやすさ」 はそれとは逆です。 自分とは違うものをただ否定します。 目の前から排除 (「淘汰」 という言葉で語られることもあります) して解決しようとします。 それは暴力です。
「わかりやすさ」 の先にあるものは何でしょうか。 わたしたちは自ら喜んで飛びついたことをきっと忘れます。 その状況をつくりだしたことを認めません。 まさか銃口が自分に向けられていたとは夢にも思いません。 まして自分で引き金を引いたとは。 獅子文六はプロパガンダへの協力を依頼してきた軍部に、 「軽い」 という印象を抱いたことを書いています。 その 「軽さ」 「わかりやすさ」 「受け入れやすさ」 にわたしたちは侵蝕されていませんか。 わたしたちの多くがこの変化をよいことだと信じている事実が何より怖ろしいです。