この小説における近親相姦は何か比喩のようなもの、 きょうだいや恋愛経験を持たない少年の空想のようなものだと思って読みすすめていた。 異世界ファンタジーの、 現実とはまったく接点のない荒唐無稽な設定のようなものだと。 でも周囲から隠そうとしていたり、 下の妹のほうは頑なに拒んだり、 それでいて家庭というごく狭い範囲 (恋愛ものは狭い範囲で大騒ぎするのが常ではあるけれども、 あまりに狭すぎる) で恋愛沙汰が錯綜して揉めたり、 近親相姦を断罪する父親の性的虐待エピソードが語られたり、 その語られ方はさもたいしたことでもないかのようだったり、 どっちつかずでわけがわからなくなった。 性暴力と恋愛が混同された世界なのか、 それとも本来そこは現実と地続きで、 主要登場人物だけがおかしいのか。 それとも加害者の男からみた世界であるというだけで、 実際にはヒロインは苦しんでいたのか。 主人公に恋い焦がれるかのように描写される妹は何か別の苦しみを抱えていたのか。 著者は性暴力をどのように認識していたのか。 どのような認識でこの小説を書いたのか。
まったくの憶測だけれども、 この小説は、 性暴力と恋愛が混同されていた男性優位社会において、 ごく当たり前に流通していたポルノを土台として借用し、 そこに蝶や言葉や共感覚といった関心事を、 好きなだけ散りばめて書かれたのではないか。 チャーリー・パーカーが他人のコード進行を借用したように。 特殊な脳にとっての快楽原則に徹して書くために、 そのような手法をとったのではないかという気がする。 そういう脳が快楽を感じることを全力でやったというか。 障害をあえて全肯定して特性を全開にしたというか。 独自のルールに基づいて書かれていて、 そのルールを読み解く手がかりが離れた場所に散りばめられていたりとか、 そのためやたら自己言及的であったり著者自身によるふざけた注釈があったりとか、 とかく尋常でない。 著者自身にしかわからない快感原則のほかはすべて無視しているかのようだ。 そこでのプロットは売り物として成り立たせるための口実にすぎない。 この物語で生々しさを感じさせるのは下の妹を自死に追い込む台詞だけで、 それはどちらかといえば加工前の素材がうっかり露出したか、 プロット上うまく機能するからあえて手をつけなかった部分であるかに見える。
この小説を 「共感」 して読むのは不可能に思える。 なぜならその要素が致命的に欠落しているからだ。 人間に対する興味は概念化されたポルノ的な美だけで、 人間を描く物語なら当然対象とするはずの、 理屈の通らない生身の何かはいっさい感じられない。 彼のファンは何を求めて彼の小説を読むのだろう。 おれは 『アーダ』 が二冊目なんだけど 『ロリータ』 は四半世紀前よくわからずに読んでしまった。 読み返せば新たな発見があるかもしれない。 たとえば ADHD であるおれの小説を健常者が本当に理解することはない。 理解できないとか読みにくいとかいわれるのはそのためだ。 脳の構造が根本から異なるのだから思考や情動の道筋に同化できないのは当然だ。 むしろ馴染めたらやばいかもしれない。 障害に何かしら近いものを持ち合わせているということだから。 障害の種類やサヴァンの有無は違うけれども、 この小説にしても脳に著者と同じ特性を抱えていなければ本当には理解できないと思うし、 性暴力と恋愛を意図的に取り違えていることを思えば、 理解できなくてよかったとさえ思う。
おそらくこの著者はプロットを情動としてではなくロジックとして理解している。 高度に概念的で抽象的で、 他人には理解不可能なロジックだ。 チェスのルールや相対性理論の数式のようなものだ、 相対性理論はお好みではないようだけれども。 繁殖のために人間の情動を模倣する外宇宙の昆虫のようだ。 感情も思考もない。 人間がなぜそのように行動するか理解などしていない。 単にコーディングされた機能としてそのようにふるまう。 この小説におけるプロットはそのようなものだ。 それでも情動に基づいておもしろく読まされてしまうのだから空恐ろしい。 この小説は恋愛を扱っていながら、 ひとがだれかを思うことを、 何かの機能のようにしか理解していない。 あるいはチェスのルールや言葉遊びや蘭の美しさのようにしか。 そういう世界観だ。 異世界を舞台にしたファンタジー小説だからといわれればそれまでだけれども、 なんとも薄ら寒い心地がする。 そういう意味でこの小説は傑作なのだと思う。
ユーモア感覚もまた異質で困惑させられる。 さまざまな小説のパロディや駄洒落レベルのセンス。 他人が笑うか否かという尺度はいっさい介在しない。 著者自身が笑うという以外の発想がない。 プルーストのパロディは記憶と時間を扱った小説だからかもしれないけれども、 駄洒落も含めた言語的な感覚はたぶん、 昆虫やチェスや蘭の関心や、 共感覚やペドフィリア的なモチーフと同レベルのものではないか。 たぶんおれはこの著者と友だちにはなれない。 日常会話も成立しないだろう。 そしてそのときには自分の頭が悪いせいのように感じさせられるだろうけれども、 実際にはそうとばかりもいえない気がする。 ピンチョンのわからなさは、 もっとカラッと乾いていて、 単におれの頭が悪くて会話が成立しないのだけれども、 でも彼ならサービス精神旺盛だから、 ポーカーフェイスのまま勢いと派手な身振りで笑わせてくれそうな気がする。 なのできっと大勢が友だちになりたがる。 ナボコフは⋯⋯怖がってみんな避けるんじゃないか。 他人へのサービスという概念がない。 自分がおもしろい、 という以外の何もない。
圧倒されながら結びにはまんまと感動させられてしまった。 思い返してみると感覚的な描写がすばらしかった。 やはり健常者にはああいう認識の仕方はできない気がする。 その致命的なまでの異質さに強く惹かれる。 なるほど好きなものに囲まれていれば、 自分さえ楽しければそれでいいのかもしれない。 そうした楽しみにとって共感や情動は、 自分とは無関係に流れ去る景色のようなものだろう。 他人を本当に知ることなどできないし、 できたとしても何の意味もない。 好きなものは好きだし他人は異質なままだ。 ならば小説の世界ではやりたい放題、 好き放題すればいい。 言葉さえあればそれをなし得る。 ナボコフ、 変な作家だな。 時間をかけて少しずつ掘り下げて読んでみようかなと考えはじめた。