アバウト・ア・ボーイ
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アバウト・ア・ボーイ

ウィル、36歳。仕事ナシ、する気もナシ。亡父の印税で悠悠自適。シングル・マザーとの後腐れのない関係に味をしめた彼は、シングル・ファーザーになりすまして、シングル・ペアレンツの会に乗り込んだ……。マーカス、12歳。転校した学校は大問題。すぐ落ち込むママも大問題。ピクニックで出会ったお気楽独身男とお悩み少年は早速騒動に巻き込まれ——。心温まる全英ベストセラー。

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著者:ニック・ホーンビィ

(1957年4月17日 - )英国の作家。サッカーと音楽に関する著作で知られる。ケンブリッジ大学を卒業後、教員・会社員を経て、1992年にスポーツエッセイ『ぼくのプレミア・ライフ』でデビュー。これまでにデビュー作、『ハイ・フィデリティ』、『アバウト・ア・ボーイ』の3作品が映画化されている。

ニック・ホーンビィの本
2018.
04.20Fri

アバウト・ア・ボーイ

孤独な子どもとだめな大人の挿話が交互に語られる。だめ男が男の子にとっての「天使とまちがわれた脱獄囚」であったのと同様に、だめ男にとっても男の子がそういう役割を果たす話だ。ふたりの語り手の相互作用が振り子みたいに行ったり来たりする。そうして子どものほうは最後に遠くへ行ってしまう。まず学校や家での暮らしになじめない子どもが出てくる。次にだめな大人がでてくる。どちらにも共感できる。共感できない小説になんの価値があるだろう? 多くのひとはおれの小説に共感できないという。おれだってこの国の多くの小説に共感できない。そこで正しいとされた価値観になじめないからだ。おれは中年になった今もとつぜん歌い出す。

ふたりの主人公のうち子どものほうには全面的に感情移入できる。だめな大人のほうは、女性への執着がひたすら描写されるくだりは読むのがしんどかった。主人公はそのために詐欺まではたらく。おれは発達障害のおかげで不条理なまでの無能で、つねに詐欺をはたらいているような気分で生活している。小説でまでそんな場面を経験したくない。映画版にもその描写はあったけれどもそこにひっかかることはなかった。ヒュー・グラントのおかげだと思う。厭味がない。根はいい奴、というか、いい奴ぶりがだめな方向に流れただけの小悪党というか、むしろただのいい奴よりも好感が持てるというか、そういう感じの憎めない人物をうまく演じている。

詐欺のくだりはコン・ゲーム風で、犯罪小説のような趣がある。このまま進むのかと思いきや、犯行はすぐ露呈する。ある日とつぜん起業を思い立つように、衝動的かつ非現実的な夢想として女たちを騙そうとしたのであって、実現する才覚はからきし持ち合わせない。わざわざ気まずい状況を用意するためにつまらない詐欺をはたらいたかのようだ。英国産の物語にはわりと共通して、社会的に立ちまわらねばならない厄介を、皮肉やユーモアでやりすごそうとする態度が感じられるように思う。たとえばMr.ビーンのような喜劇にしても、奇矯なふるまいによって社会的な迷惑になることを笑いに転化する。だめ男の詐欺もそうしたユーモアに感じられる。社会的に適切なふるまいができない生きづらさ、を扱った小説に思える。

主人公の少年が、年上の少女を護ろうとする場面がいい。彼は母親を自殺から護らねばならないし、いまやガールフレンドをもカート・コベインの自殺から護らねばならない。男の子ならだれだって、そんなふうに感じながら生きた時間があるはずだ(もちろんここでいう「男の子」「女の子」はレトリックであっていかなるジェンダーにも置き換えられる)。そして男の子が女の子を救おうと奮闘するまさにそのとき、だめな大人は男の子の母親を救わねばならないはめに陥る。とはいえだめな母親もだめ男も、だめなりに一応、大人ではあるので、自分たちがばからしいことをやっている自覚はある。そして自殺の商業化に憤る女の子は、怒りをぶつけた相手が自分と瓜二つだと知り、ひとにはそれぞれの事情があると学ぶ。

だれもがちょっとずつ変人で、社会的に正しいとされていることをうまくやれず、ばかげた状況に陥ってそこから抜け出せない。そこにだめ男が闖入することで化学反応が生じる。だめ男の側にしても、これまで幾度となく繰り返してきたはずの、夢想家らしいばかげた気まぐれをきっかけに、おかしな子どもが闖入してきて人生が変わってしまう。そう考えて、なるほどこれは相互作用の西部劇なのだと腑に落ちた。問題を抱えた土地に異界のひとが紛れ込み、ひとびとを巻き込みながら事態を解決して去っていく。それをふたつの、あるいはいくつもの土地の相互作用として描いている。だめな大人が浮き世離れした設定なのはそういうわけだ。子どものほうにしても無意識に歌い出してしまうとか、ユーモアやレトリックが理解できないとか、発達障害を思わせる描写があり(著者は実際に自閉症児の父親であるようだ)、異人として描かれている。

一方で現実には、だれも荒くれ者から街を救うガンマンにはなれない。そのこともしっかり書かれている。自殺するひとと話すのはまさにこの本で語られているような気分だ。そしてそのように奮闘しているとき、当の自分だって実際そんなに健康ってわけじゃない。地下鉄のあの駅のトイレの何番目の個室の戸当りにこういう材質のこれくらいの長さの紐をひっかけてこのようにして吊ろう、と考えている人間が、他人を励ましてどうにか自殺を防ごうとする。あの頃のおれは死のうとしているふたりのあいだを右往左往していて、少なくとも片方がそうなったことに責任があった。そういう経験が多かれ少なかれだれにでもあるはずだ。

目の前の他人が人生をどうしようが、結局のところどうにもできない。できないことを思い悩む意味はない。重要なのは潰れないことだ。人生はひとりではどうにもならない。人という字は一方が支えることで成立する(作中では組み体操のピラミッドで説明される)。潰れたら人にはなれない。でも自分でどうにかするしかない。だから利用しても潰れない奴を見つける。すべての場面で同じ相手に支えられる必要はない。なるべく多くの他人に、それぞれ見合った役割で支えさせるのだ。かつて衝動的に歌い出した子どもはそのことを見出し、大人たちに説く。それが社会で生きるということだと。相変わらずだめでありつづける大人たちを置き去りにして彼は成長する。もはや歌うことはない。


杜 昌彦

(もり まさひこ、1975年6月18日 -)著者、出版者。硬質な文体と独創的な物語で知られる。作風はアヴァン・ポップ、スリップストリーム、スペキュレイティブ・フィクションに分類される。2010年から別名義で活動。2013年日本電子出版協会(JEPA )主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、藤井太洋氏、十市社氏らによる指導を受けた『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。