文句なしに最高傑作。 ミステリとしても堅固な構成で、 かつディックならではの優しさとユーモアがいかんなく発揮されており、 ディックをどれから読めばいいか迷っている読者にはもちろん、 SF が苦手な読者にも自信をもってお薦めできる。 ただし山形浩生訳を。 浅倉久志さんは大好きな翻訳家だけれど、 これだけは山形訳のほうが、 60 年代末から 70 年代前半の雰囲気が感じられて断然いい (PDF で無償配布されている)。 どちらの訳でも何度も読み返した。 映画版もよかった。 読み返すたびに笑って泣いて深く感じ入る。 文章にも構成にも無駄がなく、 ユーモアも冴えていて、 人物造形にも会話にも真実味があり、 いままさに読者たる自分が薬物常用者と車座になってゴミだらけの家に座ってるかのようだ。 経験した人間でなければ書けない小説だと思わされる。 今回読み返して感心したのは一分の隙もない構成、 とりわけ伏線の巧みさだ。 いかれた漫才を装って何気なく仕込まれたものが、 忘れた頃に、 物語の展開ばかりか胸を打つ情景描写、 心理描写にまで効いてくる。 主人公は薬物の作用で深刻な解離性障害に陥るのだけれど、 当時はそういうことがあまりよく理解されていなかったので脳梁の分断ということになっていて、 しかもそれが屁理屈に留まらず、 診断を下す左右の心理学者 (精神科医じゃないんだな) のかみあわない会話のギャグに至るまで、 矛盾なく巧みに計算された構造物となって物語全体を支えている。 今回はじめて気づいた点はもうひとつあって、 それは覆面潜入捜査官の描写に、 設定からちょっとした細部に至るまで意外にも奇妙な真実味があることだ。 最初に読んだときには荒唐無稽な不条理劇のように感じられたけれども、 多少なりとも当時の米国を知るようになると、 どうもディック自身もしくは出入りしていた友人のだれかが実際に何かをやっていたんじゃないかと思わされるほどだ。 どうしていまこの小説を読み返そうと思ったかといえば柳楽先生が翻訳中の 『インフィニット・ジェスト』 が理由だ。 設定やら描写やらユーモア感覚やらが意匠的なレベルで似ているんである。 影響を受けたとまではいわないが読んでないってことはないだろう、 麻薬で SF といえばディックなんだから。 本書で主人公を売ろうとする監視対象者バリスと、 『IJ』 の動物虐待者レンツとはどこか似ているし、 エネット・ハウスのどたばたと本書の舞台とに共通点を見出すのはたやすいし、 『IJ』 序盤の、 幼い主人公に何かを伝えようとする父親の、 いかさま心理療法士の扮装が崩れる描写は、 (本書とは趣が異なるが) だれの目にもあからさまにディック・オマージュに感じられるはずだ。 しかし両者を較べると、 うわっつらの意匠は似ていてもやはり別物で、 正直ディックに軍配が上がる。 本書の主人公によればバリスは狂っているだけで、 動物を虐待するほどの悪人ではないし、 『IJ』 のゲイトリーは、 男に対してはさもお涙頂戴とばかり思い入れたっぷりに同情する一方で、 同じことを女がやれば 「その程度だれだって経験している、 甘えるな」 とばかり蔑むのだけれど、 そういうよくある差別をディックは本書でさりげなく窘めている。 そして 『IJ』 の主人公ハルが、 強迫性障害に陥ったのは父親の自殺に食欲をそそられたからだ、 弱みを見せたくないから自分では認めないけれど察してよ、 と読者に強要するかのような 「甘えた」 態度をとる (『IJ』 の物語では男性だから正当化される) のに対して、 本書の登場人物はどれだけ狂っても、 自分の見ているものが幻覚であり、 自分の人生が失敗だと認めている。 現実を認識することから逃げていない。 そして何もかもを喪っても、 子どもや動物や恋人を大切に思うことだけは最後に残している。 何もかもわからなくなったとき、 現代のわれわれはそのように人間的な感情を残せるだろうか。 自己宣伝と蔑み、 マウント合戦に明け暮れるソーシャルメディアを眺めるたびに、 あの活き活きとした登場人物たちとは真逆に、 彼らを搾取する麻薬供給者側に堕したのではないかという気がしてならない。 コンビニのレジカウンターに垂れたビニールシート越しに、 スクランブル・スーツのごとき店員のおぼろげな人影を見るにつけ、 どうも現代のわれわれは、 本書よりもひどい悪夢を生きているように思えるのだ。
ASIN: B0784G5Y51
スキャナー・ダークリー
by: フィリップ・K・ディック
カリフォルニアのオレンジ郡保安官事務所麻薬課のおとり捜査官フレッドことボブ・アークターは、上司にも自分の仮の姿は教えず、秘密捜査を進めている。麻薬中毒者アークターとして、最近流通しはじめた物質Dはもちろん、ヘロイン、コカインなどの麻薬にふけりつつ、ヤク中仲間ふたりと同居していたのだ。だが、ある日、上司から麻薬密売人アークターの監視を命じられてしまうが……
¥1,049
早川書房 2005年, Kindle版 399頁
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おぼろげな観察者
読んだ人:杜 昌彦
(2021年04月25日)
(1975年6月18日 - )著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『血と言葉』(旧題:『悪魔とドライヴ』)が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。代表作に『ぼっちの帝国』『GONZO』など。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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