加害者がふとしたはずみに石打たれる側へ転落するのはよくあることで、 ソーシャルメディアの正義とは、 何をしてもいい対象と社会に認定された相手に対し、 こちらは打たれる側ではないとの安心感に護られながら、 徒党を組んで石を投げ、 被害者の人生を操作することで多数派であることの力を実感し、 憂さを晴らす暴力にほかならない。 いじめ加害ミュージシャンの記事は当時読んだように思うけれど、 そこで語られた差別や暴力は当時もいまもなんら特殊ではなく、 むしろ 「普通」 と見なされる多くのひとが、 さながら呼吸のように当然のこととして、 なんなら町内会の清掃活動のような社会的義務として、 日常的、 恒常的に行っていることだ。 石打たれるからには絶対の悪に相違ない、 そうに決まったと都合よく因果関係を逆転させ、 社会的に保証された暴力に加担しさえすれば、 標的に選ばれる畏れも非難される畏れも免れて、 あたかも絶対の正義に立つかのような高慢さで気分よくいられ、 ために何びともその加害性に頓着せぬにすぎず、 だからこそ当該ミュージシャンが加害したような暴力はなくならない。 差別や加害性をまったくの他人事と捉える 「多数派」 の感性こそが、 社会での生きやすさに直結する。 動画制作会社放火殺人事件をあてこすったとされる短編読み切り漫画を読んだ。 そこで描かれる加害者は実際の事件とは異なり、 統合失調症をほのめかすことで作劇上、 意図的に 「自分たち 『普通』 とは異なる一部の特殊な人」 として、 明確に区別されて描かれており、 その捉え方はかつて相模原障害者施設殺傷事件において、 マスメディアがあたかも広報担当のごとく喧伝してやったあの優生思想めいた価値観を、 否応なしに連想させる一方で、 善玉として描かれる主人公は、 そのじつ極めて自己愛的で、 高慢であり、 つねに他人を見下していて、 自分を無条件で肯定することで作家として成長させてくれた (他者による無条件の肯定が成長の前提とされるあたり、 すでに虫のいい病的な自己愛を感じさせる) 親友に対してさえも、 モラルハラスメントにほかならぬ言動をかたくなに固持し、 そうすることでふたつの無差別殺傷テロの加害者に共通するメンタリティに、 極めて接近する。 「絶対悪」 ないし 「理不尽な不幸」 を、 自分がいつまでも健康でいられることを当然の前提にした、 「自分たち 『普通』 とは異なる一部の特殊な人」 にしか設定し得ない幼稚さもまた、 多数派の安全に乗じた暴力といえるし、 そのことはすでに批判されているようだけれど、 気になるのはむしろ善玉として設定された主人公で、 親友とすら蔑むことでしか接せられないあの人格は、 ソーシャルメディアの読者にとっていかにして正当化されうるのだろうか。 いやいやいや他人の選択や人生を、 仮にそれが犯罪被害で命を落とす不運であったとしても、 なんで自分の所有物みたいに思ってんだよ。 とはだれも思わぬのだろうか。 思わぬのだ。 あれはあたかも深層学習に基づく AI の所業であるかのごとくに、 ソーシャルメディアで評価される要素のみで厳密かつ精緻に構築された商品なのであって、 主人公の人格設定もまた計算尽くの技巧のひとつなのだ。 見下さずには他人に接することができない、 という性格を人間らしさや可愛げであるかのように語るのは、 ソーシャルメディアでは何よりも共感される技法だ。 このことは内在化された差別とないまぜに 「女児が公衆の面前で全裸になっても無傷でいられる理想郷」 を執拗に描きつづけていたとある漫画家が、 ウェブで大人気を獲得した出世作について明確に語ったことだ。 まさしくモラルハラスメント加害者のメンタリティにほかならぬその性格設定が、 にもかかわらず 「だれでも容易に共感できる人間的な弱さ」 として受け入れられ、 好まれるのは、 差別主義者を議会を襲撃させるまでの怪物に育てあげた事実からもわかるように、 ソーシャルメディアが本質的に、 ユーザにとって他人を見下すことで得点を稼ぐビデオゲームであり、 運営企業にとって加害を促すことで利益を得る商売だからだ。 商品としての現代の芸術はそこに最適化されることを求められる。 そしてわれわれ個々の人格やメンタリティもまた運営企業によってコンテンツであることを求められ、 適応しなければ罰せられ群衆によって石で打たれる。 二年前に書いた 『ぼっちの帝国』 はそのようにして淘汰される側の少数者が、 世間を逃れて理想郷を築こうとするも、 世間の悪意によって焼き討ちにあう話だったが、 予定したプロットの、 まさにその焼かれる場面にとりかかる直前に、 あのむごたらしいテロが起きた。 脱稿後に類似の事件や災害が起きるのはいつものことだが、 現実に追いつかれたのは初めてだった。 あの本ではコロンバイン高校銃乱射事件や附属池田小事件のことも書いたけれど、 加害者らの血は主人公にも流れている。 そのように描いた理由はおれの両親が実際にそのような種類の自己愛者だったからだ。 彼らのために苦しんだ若い時期、 新潟少女監禁事件の報道に接し、 そのことについて書くことを通じて、 自分もまた両親のような異常者なのか真剣に考え抜いた。 そして出した結論は、 内なる彼らを退ける努力をしつづけることによってのみ、 加害性から隔てられうるというものだった。 成功しているとはいいがたいが、 少なくともあの漫画の主人公のように親友を蔑んだり、 その人生を所有物のように扱ったり、 そうした自己愛的な暴力を、 だれかの身に降りかかった不幸や、 そこで歌われた唄を利用して、 感傷的に美化したりはしない。 それはソーシャルメディアに己を最適化できず、 負け犬として排除され淘汰されることと一体だ。 たまたま正常な家庭に生まれ、 健康にも恵まれたおかげで、 おれのような人生を幸運にも免れつづけていられる 「普通」 の人々、 いいねやリツイートの世界の住人は、 どうして池田小や秋葉原や相模原障害者施設の殺傷事件に対しては、 「無敵の人」 だのなんだのと加害者に肩入れし、 高慢や自己愛やモラルハラスメントを、 あたかも 「素直になれない可愛げ」 のように共感すべき人間らしさとして扱う一方で、 ツルハシ男やいじめ加害ミュージシャンのような暴力に対しては、 「自分たち 『普通』 とは異なる一部の異常な連中」 として片づけ、 あっさり他人事に見なせるのだろう。 その態度の使い分けはいかにしてなされるのだろう。 そのアルゴリズムが理解できない。 結局、 人間はより強大な 「わかりやすい」 力の側につくのだろう。 たぶん読者にとって小説の言葉は、 理解するには複雑すぎるのだ。
ちょっと前にも似たようなことを書いていた。
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