杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第327回: A Rush of Blood to the Head

書いた人: 杜 昌彦, タグ: ,
2021.
07.24Sat

A Rush of Blood to the Head

加害者がふとしたはずみに石打たれる側へ転落するのはよくあることでソーシャルメディアの正義とは何をしてもいい対象と社会に認定された相手に対しこちらは打たれる側ではないとの安心感に護られながら徒党を組んで石を投げ被害者の人生を操作することで多数派であることの力を実感し憂さを晴らす暴力にほかならないいじめ加害ミュージシャンの記事は当時読んだように思うけれどそこで語られた差別や暴力は当時もいまもなんら特殊ではなくむしろ普通と見なされる多くのひとがさながら呼吸のように当然のこととしてなんなら町内会の清掃活動のような社会的義務として日常的恒常的に行っていることだ石打たれるからには絶対の悪に相違ないそうに決まったと都合よく因果関係を逆転させ社会的に保証された暴力に加担しさえすれば標的に選ばれる畏れも非難される畏れも免れてあたかも絶対の正義に立つかのような高慢さで気分よくいられために何びともその加害性に頓着せぬにすぎずだからこそ当該ミュージシャンが加害したような暴力はなくならない差別や加害性をまったくの他人事と捉える多数派の感性こそが社会での生きやすさに直結する動画制作会社放火殺人事件をあてこすったとされる短編読み切り漫画を読んだそこで描かれる加害者は実際の事件とは異なり統合失調症をほのめかすことで作劇上意図的に自分たち普通とは異なる一部の特殊な人として明確に区別されて描かれておりその捉え方はかつて相模原障害者施設殺傷事件においてマスメディアがあたかも広報担当のごとく喧伝してやったあの優生思想めいた価値観を否応なしに連想させる一方で善玉として描かれる主人公はそのじつ極めて自己愛的で高慢でありつねに他人を見下していて自分を無条件で肯定することで作家として成長させてくれた他者による無条件の肯定が成長の前提とされるあたりすでに虫のいい病的な自己愛を感じさせる親友に対してさえもモラルハラスメントにほかならぬ言動をかたくなに固持しそうすることでふたつの無差別殺傷テロの加害者に共通するメンタリティに極めて接近する。 「絶対悪ないし理不尽な不幸自分がいつまでも健康でいられることを当然の前提にした、 「自分たち普通とは異なる一部の特殊な人にしか設定し得ない幼稚さもまた多数派の安全に乗じた暴力といえるしそのことはすでに批判されているようだけれど気になるのはむしろ善玉として設定された主人公で親友とすら蔑むことでしか接せられないあの人格はソーシャルメディアの読者にとっていかにして正当化されうるのだろうかいやいやいや他人の選択や人生を仮にそれが犯罪被害で命を落とす不運であったとしてもなんで自分の所有物みたいに思ってんだよとはだれも思わぬのだろうか思わぬのだあれはあたかも深層学習に基づく AI の所業であるかのごとくにソーシャルメディアで評価される要素のみで厳密かつ精緻に構築された商品プロダクトなのであって主人公の人格設定もまた計算尽くの技巧のひとつなのだ見下さずには他人に接することができないという性格を人間らしさや可愛げであるかのように語るのはソーシャルメディアでは何よりも共感される技法だこのことは内在化された差別とないまぜに女児が公衆の面前で全裸になっても無傷でいられる理想郷を執拗に描きつづけていたとある漫画家がウェブで大人気を獲得した出世作について明確に語ったことだまさしくモラルハラスメント加害者のメンタリティにほかならぬその性格設定がにもかかわらずだれでも容易に共感できる人間的な弱さとして受け入れられ好まれるのは差別主義者を議会を襲撃させるまでの怪物に育てあげた事実からもわかるようにソーシャルメディアが本質的にユーザにとって他人を見下すことで得点を稼ぐビデオゲームであり運営企業にとって加害を促すことで利益を得る商売だからだ商品としての現代の芸術はそこに最適化されることを求められるそしてわれわれ個々の人格やメンタリティもまた運営企業によってコンテンツであることを求められ適応しなければ罰せられ群衆によって石で打たれる二年前に書いたぼっちの帝国はそのようにして淘汰される側の少数者が世間を逃れて理想郷を築こうとするも世間の悪意によって焼き討ちにあう話だったが予定したプロットのまさにその焼かれる場面にとりかかる直前にあのむごたらしいテロが起きた脱稿後に類似の事件や災害が起きるのはいつものことだが現実に追いつかれたのは初めてだったあの本ではコロンバイン高校銃乱射事件や附属池田小事件のことも書いたけれど加害者らの血は主人公にも流れているそのように描いた理由はおれの両親が実際にそのような種類の自己愛者だったからだ彼らのために苦しんだ若い時期新潟少女監禁事件の報道に接しそのことについて書くことを通じて自分もまた両親のような異常者なのか真剣に考え抜いたそして出した結論は内なる彼らを退ける努力をしつづけることによってのみ加害性から隔てられうるというものだった成功しているとはいいがたいが少なくともあの漫画の主人公のように親友を蔑んだりその人生を所有物のように扱ったりそうした自己愛的な暴力をだれかの身に降りかかった不幸やそこで歌われた唄を利用して感傷的に美化したりはしないそれはソーシャルメディアに己を最適化できず負け犬として排除され淘汰されることと一体だたまたま正常な家庭に生まれ健康にも恵まれたおかげでおれのような人生を幸運にも免れつづけていられる普通の人々いいねやリツイートの世界の住人はどうして池田小や秋葉原や相模原障害者施設の殺傷事件に対しては、 「無敵の人だのなんだのと加害者に肩入れし高慢や自己愛やモラルハラスメントをあたかも素直になれない可愛げのように共感すべき人間らしさとして扱う一方でツルハシ男やいじめ加害ミュージシャンのような暴力に対しては、 「自分たち普通とは異なる一部の異常な連中として片づけあっさり他人事に見なせるのだろうその態度の使い分けはいかにしてなされるのだろうそのアルゴリズムが理解できない結局人間はより強大なわかりやすい力の側につくのだろうたぶん読者にとって小説の言葉は理解するには複雑すぎるのだ

ちょっと前にも似たようなことを書いていた

ソーシャルメディアと竹筒


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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