異常者が社会への適応を迫られて苦境に陥るが、 弱者を喰い物にすることで乗り越える、 という悪漢小説。 この結末に胸の空くような快感を覚えて喝采するかはあなたの人間性にかかっている。 刊行と同年の映画 『ブルース・ブラザーズ』 では現代社会に適応できない悪党が、 やはり有害な男らしさを誇示しようとする警官らとともに、 当時まだ目新しかったであろうショッピングモールを破壊する。 逃げ惑う買い物客や茫然とする商店主を指さして、 当時の客は笑ったのだろう。 胸の空く痛快なギャグとして受容されたのだ。 そういう時代だった、 だからこそ本書は公民権運動の時代ではなく 1980 年に出版された。
母親が哀れすぎる。 怪物を産んだことでこれほどの罰を受けるなんて。 当時は行政の支援も地域社会の理解もなかった。 ひとは 「そうであってほしい」 「そうでなければ困る」 という願望と、 「事実そうである」 の現実とを混同しがちだ。 この母親もそのように自分を偽ろうとして、 ごまかしきれずに地獄へ落ちる。 わたしにだって愛され幸福になる権利がある、 自分の人生を生きたいという痛切な叫びに胸を締めつけられる。 マイノリティの扱いもひどい。 当時の社会が実際にそのようだったのだ。 黒人、 女、 ゲイ、 貧乏人。 かれらの弱い立場につけ込んで闖入し、 ひっかきまわして不幸にする主人公。 自分だけでも這い上がろうと、 たがいに足をひっぱりあう被害者たち。 邪悪さは疫病のようなもので隔離して根絶しなければ世界に蔓延するのだ。
かくして最後に悪が勝利する。
主人公は大昔にふられた元カノへの憎しみを執拗に蒸し返し、 いやがらせを目的にわざわざ展覧会へ出向いて、 女たちに侮辱と暴言をあびせる。 女性画家に粘着して画廊へ出入りする男をはじめ、 ぶつかりおじさんとか痴漢とか、 女性専用車両に乗り込んでいやがらせする男とか、 高校生をつけまわしてチマチョゴリを切り裂く男とか、 バス停で夜を明かそうとした元劇団員の女性を撲殺したマザコン男とかを連想させる。 自己愛と執拗なこだわり、 支配欲。 支離滅裂で尊大。 邪悪さの条件を主人公はすべてそなえている。 何もかもを否定する不平を四六時中まくしたて、 自己愛的な妄想でひとびとを振りまわし尊厳を踏みにじる。 他人が自分の人生を持つことを許さない。 捕らえた獲物から吸血鬼さながらに養分を得る。 弱みにつけ込んで支配し、 思い通りにならないと破壊する。 支配か破壊かのどちらの関係かしか知らず、 また当然そうあるべきだ、 そうする権利が自分にあると決め込んでいる。
そうした発達特性が幾重にも周到に示される。 正確な描写と計算高い構成。 この説得力はおそらく意図されたものだ、 自身を重ね合わされることも含めて。 作家もまた実際におなじ病を自覚して、 だれより冷静に蔑んでいたのではという気がしてならない。 定職に就かず旅先で自殺し、 母親の尽力で作品が世に出るなりゆきまで計算したかはわからないが⋯⋯。 結末では主人公が幼少時から典型的なエピソードを持つ事実と、 乗り換えた獲物を狡猾にしゃぶり尽くそうとすることとが明確に示される。 被害者は罠にはまり込んだことに気づかない、 いや気づいていながら違和感に目をつむる。 おれは知っている。 見込まれたカサンドラはだれしも現実にこうなのだ。 あなたがそうでないのはたまたまの幸運にすぎない。
慈善病院なら電気ショック療法を⋯⋯のくだりで、 ルー・リードの受けた 「治療」 は当時としてはありふれたものだったと知った。 その是非はともかく、 矯正教育が通用せぬであろうこの主人公にかぎっていえば、 死ぬまで監禁拘束され 「治療」 されるべきだった。 野に放てば被害者は増えつづける。 おれ自身だって謗りを免れ得ない。 悪態に満ちたこの文章自体が、 幼児向けレポート用紙に書かれた稚拙な屁理屈にそっくりだと思いませんか? むしろこちらのほうが質が悪い。 どんな職も勤まらぬ点ではおなじだけれど、 主人公は弱者を支配して搾取することにかけては狡猾で目端がきく。 いわば有能で生産性が高い。 そのような人物が称賛され、 暴走車よろしくひとびとをなぎ倒しながら世界一の富豪にまで成り上がる時代を思えば、 その資質すら持ち合わせぬおれはどうなのか。 不条理なまでの無能で、 ただひたすらに周囲を混乱に陥れ、 大迷惑をかけまくっては尻拭いを押しつけ、 蔑まれ疎まれ憎まれるだけじゃないか。 なのにまだ生きている。 何てざまなの、 そんな浅ましい人なんて世の中にいない。 主人公のせいで職を失った黒人の台詞が心臓をえぐる。 「ひょっとして俺があのデブチンだったら大変だ! あいつはどうなっちまうんだろう? なあ!」
ああそうとも、 おれはどうなっちまうんだろうね。 おれもおれじゃなければよかったと心底思うよ⋯⋯。