知り合いもいない外国の戦争で胸が苦しくなったり罪悪感をおぼえたりするひとがいるそうだ。 だったら虐待について話す子ども時代のおれに、 なぜ大人たちは嫌悪まるだしで黙らせようとして、 頭ごなしに説教するばかりだったのか。 その子どもは目の前にいたのに。 少しくらい耳を傾けてもよかったろうに。 独裁者たちがやっていることはこの国の政治家がやりたがりソーシャルメディアで称賛されていることとおなじだし、 アフガニスタンで起きていることはこの国の男たちがやっていることの露骨な拡大版にすぎない。 ひとごとで責任を負わなくて済むから胸を痛めることができる、 そういうことだろ? おれたちの想像力には限界があって、 似た暮らしぶりのひとびとしか思いやれない。 ひどい暴力は地上のどこにでもあるけれど関心を向ける対象はかぎられる。 その想像力のためにも小説の翻訳出版って大切だよな。 権利に払う金を回収する見込みがなければ会議を通らない。 モールやソーシャルメディアのアルゴリズムはプラットフォームの利益を効率よく拡大する (=すでに知られていてなじみ感がありネタ消費に適した) 商品のみを優先表示し、 それ以外の表示を抑制する。 想像力はかれらの商売に都合が悪い。 知恵のついたユーザは操りにくいからだ。 国家が教育でやっていることとおなじだ。 無知な女・子どもをシャブ漬けにしろとかれらはいう。 視界を制限して都合のいいものだけを見せ、 知らない世界を思いやる想像力を奪おうとする。 抗うだけの体力が企業としての出版社にあるだろうか。 ないのであれば、 あるいはかれらがむしろ加担する側なのだとすれば、 読者にできることはあるだろうか。 国家は無知な若者たちをプロパガンダでシャブ漬けにして、 ろくな戦略も物資も与えずに泥沼の戦場へ送り込む。 同盟国での演習と聞かされていたらいきなり暴力の渦へ放り込まれた少年たちは、 兄弟分のおまえらをネオナチから救出してやるんだと叫びながら男たちを後ろ手に縛って後頭部を撃ち、 女たちを子どもたちの目の前で強姦し、 子どもたちが避難した劇場を爆破して、 民家の居間に糞を垂れ、 幼稚園を占拠してサディスティックなポルノを鑑賞し、 田舎では見たことのない家財道具を狂喜して略奪し、 故郷の両親や恋人にプレゼントする。 男らしいことだ。 元気があってよろしい。 それをいいことだと教わったかれらは戦争が終わってもその営みをつづけるだろう、 おそらくは合法的に。 国家や企業がそれを支える。 無知な女・子どもをシャブ漬けにし、 劣った兄弟分に道理を教えるのがいいことだと教えるのが出版だとしたら、 それでもあんたは牛丼を喰うのかい?
くみたさんの装画、 おれの仕事はロゴを足すだけなので作業はすぐに終わったのだけれど、 しみじみと見入ってしまう。 かつてなく苦労されていて、 もうふだんの画風でいいんじゃないのと申し伝えたのだけれど、 いやこの表現には必然性があるので、 との返事だったのがいまになって 「こういうことか」 とわかる。 彼女と話していてわかった。 「そのデザインで何をやりたいのか」 が大事なんだな。 装幀は本をあらわすものだから、 デザインに作品 (本文) の意図を実現する必然性がなければならない。 これをやりたいがためにこうしました、 という理屈がなければならない。 あとはその手段を洗練するだけ。 先日の自著の失敗例でいうと、 血の色の花には必然性があった。 描き文字にも漫画的表現にも必然性がなかった。 書名と著者名は対比であるべきで、 書名はデザイン性の強いフォントでなければならなかった。 出版社名はいつもとおなじ、 書名のフォントは連載時とおなじであるべきだった。 軸がぶれていた。 編集者は 「このままでは違う」 「これは完成形ではない」 ということまではわかる。 しかし作品の意図やその実現手段まではわからない。 あるべき必然性とは何か、 それは著者あるいは画家自身でなければわからない。 だから伴走者として 「何をやりたいのか」 を聴取し、 ともに探り出す作業が必要になる。 プロの作家になろうとしていた若い頃、 編集者たちがおれの資質とは真逆の指示ばかりしてきて、 さんざん振りまわされたあげく一銭ももらえなかったことがあった。 かれらには 「これはよくない」 ということまでしかわからず、 正解は作家自身のうちにしかない。 それを当時は理解していなかった。 そこで学んだのは 「あなたはこの表現で何を実現しようとしているのか」 という聴取の大切さ。 意図がわかれば、 あとは作家自身がそれを明確にする方法を見つける。 編集者にできるのは作家が自分の意図を見極める手伝いまでで、 あとは作家がひとりで自分に向き合わなければならない。 おれの聴取や技能の不足はあるかもしれないけれど、 伊藤さんの本でも編集者としては極力、 著者の意図を実現しようと努力したつもりだ。 あとはおれ自身にどんな本をつくりたいかの明確な軸があるかどうかで、 これはわりと揺るぎなくある。 自分自身であるための力を言葉に取り戻すためだ。
おれはインターネットの各種プラットフォームと相性が悪い。 とりわけソーシャルメディアや Amazon のようなモールとの相性が最悪。 プラットフォームのアルゴリズムと親和性のある伊藤さんみたいな才能がうらやましい。 おれはこの四半世紀、 日本語で書かれて売られている小説に違和感しかない。 憶測だけれど、 おれが苦手な価値観に偏ったものしか会議を通らないことに加えて、 読者を育てる努力を出版業界が怠ってきたからだと思う。 信用ならないからおれが自分でやったほうが早くて確実だと思った。 あれこれ実際に試してみて、 著者と読者とそのあいだを取り持つ仲介者のほかは、 なるべく排除したほうがいいんじゃないかと考えるようになった。 仲介者は編集者であるかもしれないし書評家であるかもしれない、 あるいは読者自身であるかもしれない。 オフライン書店については、 問合せに応じたら 「本物の出版社」 ではないことを悟られたのか音信不通になったり、 ソーシャルメディア上で Amazon に批判的なことを書いたら 「青山ブックセンターで働いている友人に失礼だ」 と筋違いの苦情を書店員から受けたりして、 意思疎通の難しい業種であるのを知り、 かかわりたい気持を失った。 流通については、 まず取次は実績のある企業でなければ相手にしてくれないことを知った。 なんだかスノッブな業界に感じられたし、 紙束をある場所から別の場所へ移動させるためだけに厄介な手続が多すぎるし、 時代に合わなくなった仕組みにも感じられた。 雑誌の主戦場が電子へ移行したのに、 雑誌を配本するのに便乗して書籍を運ぶ意味もわからない。 かかわる意味はないと判断した。 いずれはコンビニの複合プリンタがエスプレッソブックマシンの機能をもつと思う。 凝った装幀はいまは存在しないか注目されていない別の業種が担うようになる。 いまでも文庫本をハードカバーに仕立てる業者さんがいるけれど、 あの手の業種がいずれその役割に発展するかもしれない。
紙の本と電子本は異なる役割をもつ。 印刷物やヴァイナルのような物理媒体は残るし、 それ自体が商品だ。 本や音楽の電子的情報は権利ビジネスであり、 権利者が許すあいだだけ利用できるものでしかない。 電子図書館という概念は黒い白馬みたいなものだ。 社会的ミッションを前提とした図書館の定義と本質的に矛盾する。 一方でより 「本」 の本質に近いのは電子書籍だとも思う。 パッケージされていて隠れて読むことができる。 そのひとがそのひと自身であるための拠り所とするには可搬性と秘匿性が重要だ。 一方で電子本は容易に書き換えられてしまう。 「 焚きつけ」 を商標とした Amazon が最初からそこに留意しているのは興味深い。 ただかれら自身はすべての本を好きに書き換えられるし絶版にもできる。 ほかの本とすり替えることもできる。 プラットフォームは利用者の視界を支配することで利益を得ている。 そのための配慮であるのは疑いようもない。 ブロックチェーンに類するもので同一性を担保された著者=出版者が、 おなじ手段で同一性を担保されたソーシャルメディア機能をもつ著者=出版者のウェブサイトで epub と POD を売る (つまり著者自身がプラットフォームとなる) のが最終的な目的地で、 そうならなければ出版と読書に未来はない。 このことは人格 OverDrive で何度も試してきているのだけれど利用者に理解してもらうことがどうしてもできない。 先日まで ActivityPub で Fediverse に対応していたのだけれどこれは早すぎたようだ。 著者とのやりとりは密室ゆえのトラブルが生じがちで、 安全性の担保のため書面に残す方法をいまは選んだ。 つまりメールだ。 しかしいずれは公開の場でやりとりすることでその担保を実現するとともに、 それ自体を読書体験と販促につなげたいと考えている。 このことは 2016 年にも試そうとしたが理解が得られずうまくいかなかった。 いずれまた試したい。
出版の民主化。 おれにとって出版と読書はおれ自身であるために必要なことだ。 その妨げになるものは国家であろうと企業であろうと出し抜いてやる。 生身の悪意であろうとアルゴリズムであろうと。 その第一歩をおれははじめたつもりでいる。