杜 昌彦

D.I.Y.出版日誌

連載第309回: わたしでありながら受け入れられるということ

杜 昌彦書いた人: 杜 昌彦, タグ:
2021.
02.05Fri

わたしでありながら受け入れられるということ

Google 広告を「再開」したら 11250円分のクーポンコードをくれてやるよ、とのメールが届いたので試したら「ご利用いただけるのは新規広告主様のみです」と表示され拒否された。新規ユーザであることと再開とをわたしは両立できない。もともと億劫だったがやる気が失せた「infinite jest lang:ja」で twitter 検索したアカウントの投稿をたどって「同じ芸でも演者の人気によって評価が変わる。知名度で価値が決まるのかと侮り嘆くのは二流。その演者に信頼がないだけ」といった言葉が紹介されているのを読んだ。もっともな話ではあるが、しかしその「信頼」をいかに得るか。得るにはすでに「信頼」されている他者によって価値が見出され(あるいは付与され)ねばならない。その他者は知り合いのだれかであるかもしれないし、著名人であるかもしれないし、立派な肩書きを持つひとであるかもしれないし、それらを兼ねただれか、あるいは人間でさえなく、表示優先度による権威付けで儲けるソーシャルメディアのアルゴリズムであるかもしれない。おそらくこの考え方はわかりにくいのだろう。この考えを二流芸人の発言と同一視するくらいがひとびとに受け入れられやすく「信頼」の獲得に役立つのではないか。ソーシャルに最適化されるとはそういうことだ。いずれにせよ価値あるひとびとに読まれないのは、類は友を呼ぶというやつで、わたしに価値がないからだとわきまえてはいる。自分に合わない場でそのような検索をしたのは、柳楽先生の読者のようなひとびとに憧れがあるからだ。そうしたひとびとに読まれたい。高望みなのはわかっている。彼らはいずれも育ちがよく高学歴で、知能も収入も高い、明らかに社会階層の異なるひとびとだ。わたしはそれとは真逆の惨めな生き方をしてきたので、おそらくだからコンプレックスめいたものがあるのだと思う。かといって自分と似たような集団を見つけることもできない。本を読んでいる、というだけで「気取りやがって」と憎まれ蔑まれるような世界で生きてきた。読んだり書いたりは鼻持ちならぬ恥ずべき反逆であり、かつ隠れて実施できる数少ない希望だった。知能に発達の遅滞があるわたしは健常者の当たり前が困難である。本だって身勝手に楽しむにすぎず、学問的に正しい読み方からはほど遠い『ブリーディング・エッジ』も『インフィニット・ジェスト』も理解して読んでいるわけではない。ただ漫画的でおもしろい本だと勘違いしたにすぎない。現代の日本の小説の多くは価値観や考え方がわたしとは相容れない。生理的に受け入れがたい。逆にそうした価値観や考えに違和感をおぼえぬひとびとはわたしの価値観や考えを憎み蔑むだろう。アカデミックな読み方もできず、かといって京アニ放火事件の犯人みたいなひとたちとも相容れない。いいと思った本を読んでいるのは大概が自分とは縁遠い、優れたひとびとで、彼らは当然、わたしのような頭の悪い読み方はしない。だからわたしはだれとも会話を成立させることができない。似たひとがどこにもいない。似た集団を見いだせない以上は読者を見出すこともまたできない。他者に見出される才覚が致命的に欠如している。見出せるだけ近しく、価値を施せるだけ価値のある(「信頼」されている)他者がどこにも存在しないからだ。プロ作家になろうと努力した若い頃、出逢った編集者たちは口々に「画期的かつ実績のある企画」を求めた。目の前にある原稿は読まれなかった。新規ユーザであることを条件とした再開のように相反する要素を満たさねばならない。その道を見いだせない。


(1975年6月18日 -)著者、出版者。喜劇的かつダークな作風で知られる。2010年から活動。2013年日本電子出版協会(JEPA)主催のセミナーにて「注目の『セルフ パブリッシング狂』10人」に選ばれる。2016年、総勢20名以上の協力を得てブラッシュアップした『悪魔とドライヴ』が話題となる。その後、筆名を改め現在に至る。最新作は『ぼっちの帝国』。独立出版レーベル「人格OverDrive」主宰。
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