やっとのことで 『2666』 を読み終えた。 いやー長かった! こんなに時間と体力を費やした読書は十歳のときの 『ひげよ、 さらば』 以来だ。 スケールがでかすぎるのと物理的に重すぎるのとで読書ははかどらなかった。 とくに物理的な重さにはまいった。 通勤中に読めないどころか手で支えて読むこともできない。 読書に適した机を持っていないので寝床で読むしかなく、 読める時間と体勢が限られる。 分量でいえばスティーヴン・キングのもっと長いのをずっと短期間で読んだことがある。 どうやって読んだのか思い出せない。 若い頃の話だ。
平易で読みやすい文章ではあるけれども、 語りに癖がないわけではない。 節回しというか呼吸の間合いというか強弱というか、 物語展開の作法に親しみがなかった。 最後まで読み終えて、 これはスケールのでかい物語を受け止めるための器、 構造なのだと得心したけれども、 読んでいる最中はついていくだけで精一杯だった。 さらには南米の人物名に親しみがない。 親しみのない人名が大量に出てくる。 ファーストネームが同じ男同士がファーストネームで呼び合うギャグまである。 旧知の人物であるかのようにさらっと語られて 「こいつだれだよ」 と思ったら実はそれが初登場で、 あとから詳しい説明があったりとか、 ふざけたジャブまである。 厳しい闘いを強いられた。
各部によって趣向が異なり、 書き方も変わる。 やたら細部を詳細に語るかと思えば、 その詳細な細部の積み重ねが壮大な全体を形づくったりする。 幾層にも重なる入れ子、 どこまでも遠く広がる網。 こんな書き方もあるんだなと感銘を受けた。 喩えていうなら、 なかなか話が見えないし、 いいまわしが独特なのでじっくり腰を据えて聞かないと何をいっているかわからないけれども、 見えてくるととてもおもしろい話をしている⋯⋯あるいは実はとてもおもしろいんじゃないかと思いはじめて、 全体像を知りたくなる、 そんな語り口だ。 正直にいって話の全体像は最後までよくわからなかった。 殺人の謎も解かれないし。 作家の謎はいちおう解かれて、 この壮大な話が語られた理由というか事情はわかったような気がした。 わかったようなわからないような、 読み返して確かめたくなる感じだ。
ほんとうは四連休に読むつもりで買った。 突発的な業務が入って連休がなくなってしまったので、 途切れ途切れに読んだ。 時間をかけてじっくり読むべき物語と文体ではあるのだけれど、 しかし、 あいだをおかずにつづけて読むべき物語ではあったようだ。 でないと忘れてしまう。 集中して読める条件が整っていれば、 それ以上に読書経験がこれほどまでに不足していなければ、 むしろつるつる読めたのではないか。 アーヴィングの新作に書かれていたゴミ捨て場やグアダルーペの聖母が出てきて、 読書のシンクロニシティを感じた。 なぜかたまたま似た本をつづけて読むことがある。
著者は刊行を見ずに亡くなったという話だけれども、 部分的には未完成の印象もあった。 第三部の終盤は手を入れられすぎた手塚治虫の単行本のように場面が飛んでいる感じがするし、 結末近くにはだれだかよくわからない語り手が唐突に私感を述べる箇所がある。 本来は全体にもうすこし語りの要素が加えられるはずだったのでは。 これ一作しか読んでいないから勘違いかもしれない。 いずれにせよスケールがでかすぎて、 いちど読んだだけではわからない。 狭い部屋に暮らしているのでふだんは読み終えたら捨てる習慣なのだけれど、 この本だけはとっておいて数年おきに読み返すつもりだ。